海辺・2
もちろん「王子」なんて名札が下がっているわけではないけれど、目の前に立っていた人は絵に描いた王子様そのものだった。
軽くカールする明るい金髪に青い目、白い肌。鼻筋の通った美しい顔は西洋人っぽい細面ながら頬の柔らかい曲線が優しい雰囲気で、育ちの良さを感じさせる。肩にはね上げた短めのマントの下から覗く体躯は、決して太っているわけではないが骨格そのものが大きい上に適度に筋肉が乗っている結果、典型的な日本人よりもかなり大柄な印象だ。ゆったりしたズボンと革のブーツに覆われた長い脚。腰には宝石で飾られた剣が下げられている。非の打ちどころのない姿に唯一そぐわないのが――
「あーっ、私の携帯!!」
そう、王子様の手には、安っぽく煌めくデコシールの貼られた私の携帯電話が握られていた。
言い訳をするならば、携帯にデコシールを貼るのは決して私の趣味ではない。
着る物、持ち物やインテリアに至るまで、よく言えば実用的、悪く言うなら可愛げがないと表現されるタイプのデザインが私の好みだ。別に可愛いものが嫌いなわけではないが、平均よりも高めの背とがっちりした肩幅といった遺伝子的な部分から、私には可愛いものが似合わないのだ。だから可愛いものが近くにあると、その似合わなさが気恥ずかしくて、落ち着かなくなる。
当然きらきらしいピンクとシルバーの痛い雰囲気の携帯電話は私の趣味ではない。何の面白味もない黒の携帯電話にデコシールを貼ったのは私の姪っ子だった。
***
私と兄は一回り以上年齢が離れている。はっきり言われたこともないし、わざわざ問い質すような事柄でもないが、父と母の年齢からすれば兄が普通で、私は想定外にできてしまったといったところだろう。
その兄は、昨年父の三回忌を昨年済ませると、一人暮らしの母が住んでいた家を建て替えて同居を始めた。父を亡くして心細いことを隠そうとしなかった母は家族と暮らせるのを喜んだ。
私にしても、産んでくれたことに感謝を惜しむつもりはないが、やっと兄が手を離れたところにもう一度育児をしなければならなくなった母は、結果的に私をほとんど自分の母親に預けきりにしたので、正直にいえば今更母と二人暮らしをするのは気づまりだったから、兄の決断は大歓迎だった。
それでも帰る家がなくなるわけではないと言って、兄は新居にも私の部屋を作ってくれた。きっと数年のうちに姪っ子が使うことになるのはわかっているけれど、それでも気遣いはありがたい。逆にいえば、そんな気遣いをしなくてはならない程私と兄の関係は他人行儀だ。年齢が離れすぎてほとんど親しく接する機会がないまま今まで来てしまった。
昨年の暮れに初めて訪れた兄の家は、まだ新築の匂いがしていた。それでもその家は既に義姉の切り盛りする空間となっていて、勝手のわからない私はただ客として自分に与えられた部屋でぼんやりと時間を潰すことしかできずにいた。
そこにひょっこり顔を覗かせたのが姪っ子だった。多分新居で初めて迎える年越しの準備に忙しい両親から私に遊んでもらえと言われたのだろう。
やってきたのはいいが、姪っ子は入り口に立ったまま困った顔をしてもじもじしていた。子供に慣れていない私は小学生にもなっていない姪っ子にどう話しかけていいかわからなかったし、あちらもあちらで、数えるほどしか顔を合わせたことのない叔母に何を言ったからいいのか思いつかなかったのだろう。
それでも、先に口を開いたのは姪っ子だった。
ベッドに座って意味もなく携帯電話を弄っていた私の手元を見て、彼女は言ったのだ。
「それ、綺麗ね」
彼女の視線の先で揺れていたのは、銀色の熊のストラップだった。
「これ? この熊?」
「うん、そう。可愛いし、綺麗」
私の隣に座った姪っ子は、そっと手を伸ばしてストラップに触れた。
「じゃあ、あげようか?」
このストラップは何かの景品で、大きさが手頃だったから使っていただけだった。可愛いと言えば可愛いが、私にはむしろ安っぽいメッキがすぐ剥げるだろうという予測が先に目に着くシロモノだ。
たまたまそれまで気に入って使っていたストラップのコードが擦り切れてしまったので、気に入ったのが見つかるまでの繋ぎのつもりで使っていたから、私には特に思い入れがなかった。
「え、いいの?」
「うん。あげる。携帯は持っていなくても、鞄につけてもいいんじゃないかな?」
「わぁ、ありがとう」
気軽に言った私とは裏腹に、姪っ子は外したストラップに頬擦りをして喜んだ上、それだけでは悪いと自分の宝物の入った箱を持ち出してきた。
「どれでもいいから、つけてあげる」
金色のリボンやピンクのチェーンといったきらきらしたもので溢れた宝箱の中から、大切そうにデコシールの袋を取りだした姪っ子は、一生懸命な様子で言った。きっとそういった華やかな小物に心惹かれる年頃なのだろう。
正直私はそんな子供騙しに魅力は感じなかったが、彼女の真面目な様子を前にして無碍に断るほど冷たい大人ではない。
「ありがとう」
「どれがいい?」
そう訊かれて困った私は、すべてを彼女に任せることにした。
「どうしたらいいかわからないから、好きに飾ってくれる?」
結果として出来上がったのが、無駄にきらきらしい今の携帯だ。頼んだ時は、帰ったらすぐに剥がせばいいと思っていたのだが、あまりにも熱心に貼ってくれた様子から、痛いと思いつつもそのままにしていた。
幼児の仕事にしては随分ときっちりと貼ってあったし、何よりも使ってみたら黒い鞄の中で派手派手しい携帯は探しやすいという思わぬ利点を見つけたという事情もある。
***
その携帯が、今は異世界の王子様の手に握られている。これほど違和感のある光景も珍しい、と私はどこか感心して見ていた。
「こちらはマレビトさまのご宝物でございましょうか?」
王子様の口から出た言葉は日本語だったけれど、聞き慣れない単語ばかりだった上に、見るからに横文字を喋りそうな王子様から発せられたので、私は意味を取り損ねてしまった。
「マレビトさま?」
かろうじて耳に残った単語を繰り返す。音としては日本語なんだけれど、意味がわからない。
「マレビトさまでいらっしゃいますよね?」
確認するように王子様が問う。だからマレビトって何?
「ごめん、私、マレビトが何だかわからない。でもその携帯は私のだから。拾ってくれてありがとう」
とりあえずわからない部分はスルーして、手を伸ばした。
「やはりそうでございますか」
素直に渡してくれたものの、王子様は残念そうだ。手を離した後も未練がましく携帯を見つめている。
視線を感じながらも私はとりあえず携帯を動かした。よかった、とりあえず動く。勿論通信はできないけれど、メモリーは無事らしい。
ほっとしてハーヌを振り返る。
「壊れてなかった」
「よかったな」
ハーヌが頷いた。――私だったら携帯電話より竜のほうがずっと気になるはずだけど、この世界だと竜は珍しくないのかな。
疑問はそのままにもう一度王子様にお礼を言う。
「ありがとう。ちょうど探していたところだったの」
「それはようございました。お役に立てて光栄でございます」
王子様の物言いはやたら堅苦しい。ちょっと困って軽い感じで自己紹介してみた。
「私は後藤雪音、キーネって呼んでね」
「私はアンティデュール国の王太子、ユーノリディアス――」
名乗られた名前は長すぎて聞き取れなかった。それにしても、本物の王子様だったんだ。びっくり。なんでこんな誰もいないところに王子様が一人でいるんだろう? 普通は護衛とかお付きの人とか、いろいろ居るんじゃないんだろうか。
「――ユーノとお呼びください」
ぼんやりと考えている横で名乗りを続けていた王子様は、簡単な呼び名で締めくくった。助かった、これなら覚えられる。
ほっとした私は、次のユーノの言葉にぽかんと口を開けた。
「キーネさま、どうか私にマレビトのお力をお貸しください」
――どうやらマレビトが私を指しているのは間違いないようだ。でも、本物の王子様に 私に貸せる力があるとは思えないんだけど。