海辺・1
光が消えると目の前には綺麗な青い色が広がっていた。しばらくぼんやりとその色を眺めてから、やっとそれがよく晴れた空と凪いだ海であることを認識した。
ざーん、ざーんと穏やかな波の音が優しく鼓膜を揺らし、潮の香りが鼻腔をくすぐる。確かにこれは海だ。
もう見回すと、私は海辺に面した岩場に立っているらしいことがわかった。私の足元から少し先には観光地のポスターにありそうな白い砂浜を挟んで海が広がっている。左右を見回しても人工物は一切見えない。当然ゴミなど落ちていない、感動的に美しい海辺の光景。
しばらく見惚れた後、やっと私は同行者の存在を思い出した。こんなに素晴らしい風景を見せてくれたんだもの、いっぱいお礼を言わねば。
「ハーヌ、すっごく綺麗だね」
言いながら肩を見降ろしたが、期待した姿はそこにはなかった。
「あれ? ハーヌ?」
足元の地面を見まわしたが、トカゲの姿は見つからない。茶色い岩場に深緑のトカゲはそれほど溶け込むとは思えないけれど、隙間に入ってしまったのだろうか。でもハーヌがわざわざ隠れる必要はないはずなのに。
もっと遠くに行ってしまったのかと改めて見回すと、私の左後方が暗緑色の岩になっているのがわかった。この色だとハーヌと同じだから、見つけるのは困難だ。でも何でハーヌは隠れているんだろう。タチの悪い冗談だろうか。
少々腹を立てながら岩に目を凝らした私の前で、突然その岩が動いた。
「えっ」
思わず瞬きしたけれど、確かに見間違いではない。岩は動いている。これだけの大岩が崩れたら私なんかぺちゃんこだ。
恐怖から数歩後ずさり、離れた所から改めて見上げて、やっと私はその岩が竜の形をしていることに気付いた。――私の前にあるのが前足、その後ろに翼、上には首がそびえていて――私の見ている前で首がきょろきょろと振られた。動きにつれて繊細な縞を描いている鱗が微かに光を反射する。
この形、この色、大きさはとんでもなく違うけれど、これはきっとハーヌだ。この大きさなら間違いなく竜に見える。
「ハーヌ!!」
必死に上を向いて呼びかけたが、ハーヌは気がつかない。手を大きく振りながら息が切れるほど何度も呼んだのに、ハーヌは上のほうを向いて周囲を見回すばかりだ。
――ちょっとは下を向いてくれればいいのに。
八つ当たり気味に思って、気がついた。ハーヌは自分よりもずっと大きい「キーネ」を探しているんだ。だから上ばかり見ていて、当然下なんか向くわけがない。
と、同時にあることに思い当ってぞっとした。このままハーヌが「キーネ」を探しに飛び立ってしまったら、帰る方法も判らないまま私はここに置き去りだ。大きな「キーネ」を探しているハーヌが私を見つけることは絶対にない。何とか今ここでこちらを向かせなくては。
焦りながら見回すとハーヌのすぐ向こうに本物の岩がそびえているのが見えた。あそこから背中に飛び移れば、いくらハーヌでも気がつくんじゃないだろうか。うまい具合にハーヌ背中の少し上に、こちらに向かって張り出した大岩がある。あそこまではなんとか辿りつけそうだ。
私はまず肩に掛けたままだったバッグを一度降ろして、ベルトを外した。このバッグはベルトのフックを掛け替えるとリュック型になるのだ。岩を登るのなら両手が使えたほうがいい。しっかりファスナーを閉めて、背中に背負いなおした。
上着はちょっと迷ったけれどそのまま着ていることにした。万一滑り落ちることがあれば、服は厚いほうがガードになる。幸いパンツスーツにローヒールだから、動きは比較的楽だ。もっと大人しい印象の服のほうが就活向きかもと迷ったが、服に似合った動きができる自信がなかったので活動的なものをチョイスしたのが功を奏したことになる。――まったく予想はしていなかったけれど。
登り始めてみると、茶色い岩はごつごつとして手掛かりや足場が多く、ありがたいことに予想よりも登り易かった。あちこちに黒い鳥の羽や羽毛が落ちているから、近くに巣があるのかもしれない。糞まで落ちているのは嬉しくないが、贅沢を言っている余裕はない。
最初はハーヌが飛び立ってしまわないかとちらちら後ろを窺いながら登っていたけれど、一度足を踏み外しそうになってからは気を引き締めて目の前の岩に集中することにした。ここで落ちることは最悪の結果に繋がっている。
目標にしていた岩に手を掛け、身体を引き上げる。これくらいで息が切れているのは運動不足の証拠だろう。いくら就活中とはいえ、ちょっと情けない。
上から見下ろすと、ハーヌの背中は一メートルくらい下になっていた。背中は広いけれど、うまく真ん中に乗らないと鱗で滑って下まで落ちてしまいそうだ。慎重に狙いを定めて――と思った途端、ハーヌが足踏みをした。顔が真直ぐに上げられる。まさか飛び立つ気じゃ――。
焦った私は大声を上げながら深緑の背中目掛けて飛び降りた。
「ハーヌ!!!」
私の無謀な試みは、確かにハーヌをこちらに向かせることに成功した。長い首の上の頭がくるりとこちらを向き、怪訝そうな声が降ってくる。
「キーネ?」
続いて鼓膜が破れるような大音声が轟いた。
「キーネ!!!」
次の瞬間、私の足元が大きく跳ね上がり、私の身体は空中に投げ出された。耳元で風が鳴る。本当に怖いと悲鳴は出ないものらしい。弧を描いて青空を切り裂くハーヌの尻尾がスローモーションで目に映る。
――びっくりしたハーヌは、きっとバク宙をしたに違いない。それがハーヌの癖のようだった。今更思い出しても遅い。そろそろ岩に叩きつけられる頃だろうか。きっと大怪我だろう。骨折くらいで済めばいいが、と思った時、急に身体が止まった。加わる重力に口から内臓が飛び出しそうだ。
「ぐ、ぐえっ。げほっ」
品のない音が口から出たが、幸い音だけで済んだようだ。
私の胴を掴んでいたハーヌの鉤爪がゆっくりと動き、慎重に私の足を地面に置いてくれると、そのまま私は岩にすがって激しく咳き込んだ。
「大丈夫か、キーネ」
「あう、た、多分……」
なんとか答えて大きく深呼吸をし、身体を真直ぐにする。少しくらくらするのを目を瞑ってやり過ごす。ややあって目を開けると、ハーヌの大きな顔が心配そうにこちらを見ていた。
「ごめんな」
しゅんとした表情で紡がれた謝罪の言葉に、首を横に振って見せる。確かに私を跳ね飛ばしたのはハーヌだけれど、助けてくれたのもハーヌだし、原因は私にある。
「ううん、私も悪かったから。助けてくれてありがとう」
「本当に大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
眩暈も治まったし、今度は自信を持って答えられた。
「それにしても、ハーヌってこんなに大きかったんだね」
改めて見上げるとハーヌも頷いた。
「界を渡ると大きさが変わることがあるとは聞いていたが、こういうことだったは知らなかったぜ」
今のハーヌは身体だけで大型のトラックくらいある。頭だけでも私と同じくらいの高さだ。うん、よく絵で見る竜そのものといった感じ。
しみじみ見上げていると、ハーヌが思い出したように言った。
「そう言えば、さっき何か光るものがあっちのほうに飛んで行ったが、心当たりはないか?」
「光るもの?」
「ああ」
光ると言われても、ペンダントはちゃんとあるし、他にアクセサリーは着けていない。リュックのファスナーも閉まったままだ。ポケットは――と手を当てたところでぎくりとした。スーツのポケットがぺたんこだ。携帯を入れてあったはずなのに。
慌てて手を突っ込むが、中は空だった。反対のポケット、ズボンのポケット、胸のポケットからリュックの中まで確認したけれど、やはり携帯は見つからなかった。
「大事なものなのか?」
「うん。あれがないとかなり困る。探さなきゃ」
携帯がないと、まず就活に困る。その他の連絡先も全部携帯の中だ。もし壊れていてもメモリーさえ吸えればなんとかなるはず……。
「多分あっちだったと思う」
ハーヌが指したのは岩場の先だった。私の携帯はかなり目立つから、きっとすぐ見つかるはずだ。壊れていないといいけど。
「あ」
岩場に向かって踏み出した私の視線の先には、王子様が立っていた。