宰相宮・9
稀人のアイコが福祉施設を作ったというのは聞いていたけれど、漠然と王都での話だろうと思っていた。国の中枢の偉い人のすることだから王都でってイメージだったんだけれど、よく考えてみれば別に王都に限らなくてもいいということに今初めて気がついた。
「そうか、宰相の奥さんになったんだから、宰相の地元が本拠地なんだね」
言っていて、違和感を覚える。――宰相って世襲だっけ? 今の宰相の領地と当時の宰相の領地が同じなのは単に偶然? それとも地元じゃないところでもいろいろ施設を作ったってこと?
混乱した私に、ライラは丁寧に解説してくれる。
「アイコさまのご夫君は名宰相として名高い方でしたが、アイコさまに出会われた当時はまだ一介の小貴族でした。それまでの宰相はごく一握りの最高位の身分の方々――王族や大貴族の方々の持ち回りのようになっていたので、ご夫君も宰相就任に際して王家の流れを汲む大侯爵家の養子に迎えられました。その大侯爵家がこのドゥエラの領主だったのです」
「ああ、だからアイコさんはドゥエラに施設を作ったのね」
「はい、そうです。アイコさまのご夫君は名宰相として知られていて、今でも『青の宰相』と呼ばれています。青の宰相以降は血筋よりも実務能力が重視されるようになり、国の運営そのものが大きく変わりました。青の宰相が有能で素晴らしい施政を行ったことがもちろん重要ですが、それを支えたアイコさまの存在が、結局はこの国の在り方を変えたのだと言われています」
「それっていいことだよね?」
ライラがどこか客観的な言い方をしたので、気になった私は確認するように尋ねた。
「立場に依って善し悪しの判断は分かれるとは思いますが、私のような庶民にとっては、より民のことを親身になって思い遣ってくださる方が施政を担うのは喜ばしいことですし、また微力ながら自分も国の為にしっかり働こうという気になりますから、いいことだろうと思います」
ライラの言い方は慎重だ。ライラの周囲の官吏の間でさえ、違う見方をしている人がいるということなのだろう。もしかしたら貴族出身の官吏がいて、己の処遇に不満を抱えているのかもしれない。
「実際には青の宰相は大侯爵家の養子になっていますし、彼の後に宰相となった方々も皆それぞれ大貴族の養子に迎えられていますから、厳密にはそれまでの世襲制が崩れたわけではありません」
「つまり、名目上はこれまでどおりの制度を維持しながら、実質的には貴族以外からも優秀な人材を登用しているってことね」
「はい、そうなります。青の宰相は貴族の出身でしたが、現在の宰相は私と同じ施設のご出身です。彼は宰相になる前にドゥエラの領主家の養子に迎えられて、その後に宰相になられましたので、青の宰相とは順番が逆ということになります」
昨日会った宰相の顔が頭に浮かんだ。私はあまりいい印象がないのだけれど、ライラは尊敬していることが口ぶりから窺える。
「もうよろしいのですか?」
話に夢中になって食事の手が止まっていた私をライラがやんわりと促した。
「あ、ごめん。これだけ食べちゃうね」
慌てて持ったままになっていたトミーラを口に運んだ。
暫く食べることに集中して、お腹がいっぱいになったところで改めてライラに尋ねる。
「貴族の中に代々続いて来た生粋の貴族と養子になった人が混ざっていたら、仲が悪くなったりしないのかしら」
なんとなく、だから宰相は人が悪そうなんじゃないかと思ったりして。
「さぁ、どうでしょう。私にとっては高位の官吏も貴族も、どちらも仕事上でたまにお会いする程度の方々ですから、そこまでは分かりかねます。ただ、青の宰相の活躍以降は貴族の中に『優秀な養子を迎えると家が発展する』という考え方が広まったので、養子自体は珍しくないことです。今の宰相もその流れの中にいらっしゃるわけですし」
「へぇ、よくあることなんだ」
ライラが淹れてくれた食後のお茶をゆっくりと口に運ぶ。うん、いい香り。
「ええ。アイコさまのご尽力もあって、各地に福祉施設や学校が建てられ、今では国全体で貧しくても優秀な子供は高い教育が受けられる仕組みになっています。私は詳しいことは知りませんが、国全体の生産力が上がって国が豊かになった結果、貴族の暮らしもさらに向上したのですから、貴族にも恩恵はあったのではないでしょうか」
多分これだけのことをすぐに答えられるというだけでも、ライラは優秀な官吏なのだろうと思う。きっと国全体を見渡すような教育を受けているのだろう。
綺麗な仕草でお茶のカップを置いたライラは柔らかに微笑んだ。
「少なくとも、この制度は私にはこの上もない恩恵がありました。両親が亡くなったのが十歳のときでしたから、以前だったらそのまま奉公に出されていたはずです。それが、学校の成績が良かったからと施設に入って勉強を続けることができて、さらに官吏の職に就くことができました。アイコさまには本当に感謝しています」
ライラは「アイコさま」を、まるでよく知っている人のように語っていて、「伝説の稀人」とは少し違う距離感を持っているように感じる。
「その施設が、アイコさんが作った施設というわけ?」
「はい、そうです。青の宰相は宰相職を退いた後はアイコさまとご一緒にずっとドゥエラに住まわれました。宰相のご家族のお住まいも、子供たちの施設も、距離は離れていますがどちらもこの宰相府にありますので、アイコさまは折に触れ施設に足を運ばれていたそうです」
「へぇぇ、ここにあるんだ」
やたらに広い建物だと思ったけれど、宰相のプライベートエリアも福祉施設も、全部入っているとは驚きだ。
「はい。アイコさまも青の宰相も街の人に気さくに話しかけられたそうで、ドゥエラの街の年寄りには、直接お二人と言葉を交わした思い出を持つものがまだ残っています。福祉施設は子供の為の施設ですし、職員も代替わりしていますから、直接の遣り取りをした者はもうおりませんが、それでもアイコさまの逸話はたくさん残っています」
ライラがアイコさんに親近感を抱いているというのは先程から感じていた。ユーノのただひたすらに尊敬し見上げるばかりの視線とは違う、まるで幼いころから話を聞いていた親戚の人を語るような口調。
「アイコさまはなかなかお茶目な方だったそうで、使われていなかった一角で子供たちとかけっこをしたり、かくれんぼに興じたこともあったそうです。
くすりとライラが笑う。ユーノの語る堅苦しい「慈愛の稀人」の人間らしい一面。
「なんだか、稀人って偉いばかりじゃないとわかってほっとした」
ふうっと息を吐いて言うと、ライラが頷いた。
「とても偉大な方なのは確かですが、直接会うと小柄で可愛らしい方だったそうですよ。私が施設にいた頃は、アイコさまがお好きでいつも小さな子に読み聞かせていたという絵本がまだ残っていました。随分傷んでいるのを補修しながら使っていたのですが、柔らかな色合いで、夢のある優しいお話だったのを覚えています」