宰相宮・8
主人公視点に戻ります。
目が覚めたら見慣れない光景だったので、しばらくぼんやりと布で覆われた天井を眺めていた。ゆっくりと記憶が蘇る一方で、昨日の天幕の中と今日の天蓋の中はある意味似ている、なんてことを考える。
昨夜は天覆つきのベッドなどで眠れるのだろうかと思ったが、実際にはあっという間に眠ってしまったようだ。疲れていた所為と言えば聞こえはいいが、単に図太いだけかもしれない。
ベッドに横たわったまま周囲を見回してみたが、当然のことながら天蓋の布しか見えない。それでもベッドが広いから圧迫感はなかった。むしろ部屋がやたら広いことを考えれば、天蓋がなかったらきっと落ち着かなかっただろうと思う。日本にいたときは天蓋なんてセレブな雰囲気ツールだと思っていたけれど、意外に実用的なのかもしれない。あくまでも部屋がとてつもなく広い場合限定だけれど。
意識がはっきりしてくるに連れて、時間が気になり始めた。天蓋越しでも辺りが明るいのは確かだから、起きるのに早すぎるということはなさそうだ。いや、むしろこれは寝坊の範疇かもしれない。でも人の気配が全くしないから、まだ起きないほうがいいのだろうか。
迷ったものの結局起き上ったのは、自然の欲求からだった。要するにトイレに行きたくなったのだ。
広いベッドの端までもぞもぞと進んで、天蓋をかき分けるように開いた途端、声がした。
「お目覚めですか?」
「わっ」
びっくりした私は思わず声を立ててしまった。だって誰かいるとは思わなかったんだもん。
「キーネ?」
天蓋の外ではライラが立ったまま目を丸くしていた。
「あ、ごめん。誰もいないと思ってたから」
我ながら間抜けな言い訳だ。
「まあ、申し訳ありません。驚かせるつもりはなかったのですが」
ライラは眉尻を下げて謝ったけれど、どう考えてもライラの所為ではないだろう。
「うん、わかってる。侍女の仕事だもんね。私が慣れていないだけ」
気にしないでと手を振って、揃えてあった室内履きに足を入れる。トイレの方を示してちょっと行ってくると伝えれば、ライラはそれ以上くどくどと謝ることをせず、黙って微笑んで頭を下げた。
ライラに教えてもらいながら身支度を整えて隣室に行くと、二人分の朝食が用意されていた。
「ご一緒させていただければと思いまして……」
ライラの申し出は、昨夜私が一人での夕食を嫌がった所為だろう。普段一人暮らしだから、一人きりで食事をするのはまったく構わないのだが、横にずっと給仕に立たれるのは落ち着かない。それも全く知らない人ならともかく、既に私の中では友だち認定しているライラでは、気にするなと言うほうが無理だ。
昨夜は座ってもらっただけだったが、いっそのこと一緒に食べようと考えてくれたらしい。きっとこちらのルールでは不敬に当たるのだろうが、私にはとても嬉しい申し出だ。
「もちろん喜んで」
笑顔で答えた途端に、別のことが気になった。
「もしかして、お腹が空いているのに私が起きないから、ずっと待っていた?」
それはそれで申し訳ない。
「いえ、待つほど遅いわけじゃありません。逆にこれ以上早いと厨房が大変です」
「それならよかった」
確かに、食事を作る人や運ぶ人もいるんだもんね。電子レンジで温めるってわけにもいかないだろうし。
食べ始めてすぐにわかったのは、ライラが食事の相手として最高だということだった。
何でも美味しそうに食べる上に、食べ方が綺麗で、しかも食材や調理方法に詳しい。私にとっては知らない食材ばかりだから、いちいち尋ねてばかりいるのだが、どれを訊いてもちゃんと答えが返ってきた。
「これは何でできているの?」
脇の大皿に掛けられた布の覆いを開いたライラに促されるままに、小さめのクレープのようなものを一枚手に取って尋ねる。クレープよりちょっと灰色がかっているこれが、今朝の主食になるらしい。
「トミーラといって、ハイルという穀物を擂り潰して粉にしたものに水を加えて、薄く焼いたものです。ミルクを加えて甘く仕上げたものをデザートに食べることもありますが、これは食事用なので甘みはほとんどありません」
答えながらライラは自分も一枚取って目の前の皿に置き、布を大皿に掛け直した。
「ここに好みで具を乗せて、ソースと一緒に巻いて食べるんです」
ライラの作業を見よう見まねで、まずレタスのような葉っぱとスライスしたピーマンのような野菜を乗せ、その上に揚げた魚らしきもの置く。
「こちらのソースはピリッと辛みがあります。そちらのは少し酸味があって、一番端のは甘めです」
「ライラはどれが好き?」
「私ですか? どれも好きですが、この魚にはこの酸味の利いたものが合うと思います」
「じゃあそれにしよう」
「でも人に依って好みは違うと思いますよ」
「もちろん。ちゃんと全部食べてみるから心配しないで」
笑いかけると、ライラもくすくすと笑った。
「ああ、よかった」
大げさにほっとした顔をしたライラは、言い訳のように付け加えた。
「私が勧めたものしか口にしないのでは、偏ってしまいますから。折角こちらの世界に来たのですから、なるべくいろいろ味わっていただかないと」
「うん、私もなかなかできない経験だから、しっかり味わおうと思ってる」
お喋りをしながらライラの指導でトミーラをくるくると巻く。食べている最中に崩れないようにしっかり硬く巻くのがコツなのだそうだ。
「食べるときには、こう斜めに持って、下の端を小指に引っかけて上に向けておくと、ソースが垂れません」
「なるほど」
言われたとおりにしているつもりなのに、食べていたら皿の上にソースがぽたりと落ちた。見るとライラの皿は綺麗なままだ。
「難しいね」
「もう一枚、やってみますか?」
「うん」
またライラが銀の蓋を開けた。
「それ、開けておいたらいけないの?」
「渇くと硬くなって巻けなくなってしまうんです」
「ああ、そうか」
「街の食堂では一度にたくさん焼いておくのですが、乾かないようにする専用の容器があるんですよ。一番下にお湯を入れておいて、蒸気で湿気を保つんです」
「へぇぇ」
ライラは街の食堂にも行くことがあるのだろうか。日頃の食事はここの食堂で取っていると言っていたけれど。
「ライラは街の食堂にもよく行くの?」
「そうですね。お休みの日には街に行くこともあります。でもここには賄いがついているので、食堂に行く機会は少ないですね」
「それにしては、食堂とか食べ物に詳しいよね?」
「私が生まれた家が食堂を営んでいたんです。小さい頃から見ていたので自然に覚えました」
なるほど、それなら食材や調理方法に詳しいのも当然だろう。
「家っていうことは、たとえば一階がお店で、二階で生活しているとか?」
「ええ、そうです。私の家は小さな店だったので、父が料理を作って母が接客と会計をしていました」
ライラの顔に懐かしそうな表情が浮かぶ。
「裕福ではありませんでしたが、活気があって楽しかったです」
ライラの言葉に、ハーヌの背中からちらりと見た街の光景を思い出す。確か小さな建物がたくさん並んでいて、人通りも多く、かなり賑わっているようだった。
「ご両親は今も食堂をしているの?」
だったら一度行ってみたいなという軽い気持ちで訊いたのだが、一瞬ライラは困った顔をした。
「いえ、二人とももう亡くなりました。私は施設に引き取られた後、こちらで働くことになったんです」
「……」
思いがけない話に一瞬言葉を失った。
「すみません、暗い話で」
「ううん、私こそ、変なこと訊いてごめんなさい」
「いえ、二人が亡くなったのは仕方のない事故でしたし、その後も施設ではよくしてもらいましたから、私は恵まれていると思います」
きっぱりと言ったライラは、話題を変えるように続けた。
「私の育った施設は、稀人のアイコさまが始められたものなんですよ」