閑話・宰相の執務室(ライラリア視点)
殿下の部屋を辞した私は、その足で宰相の執務室に向かった。
私にとっては宰相も殿下同様はるか雲の上の存在だが、宰相の執務室は普段行き慣れている行政部門区域の一角にあるため、幾分か気が楽だ。廊下ですれ違う顔も見知ったものが多い。お互い忙しいのは承知の上だから、笑顔で軽く目礼して通り過ぎた。
宰相の執務室は行政部門区域の中でも一番奥まった場所にある。
正確に言うなら「宰相」は国政上の肩書きだから、領主の執務室と呼ぶべきだろうが、
ご本人は通常ほとんど王宮で宰相としての執務を行っており、領主としての実務は宰相のご長男が取り行っているため、私たちは「宰相の執務室」と呼んでいる。
対する領主の執務室は私たちのいる場所に比較的近い、実用的な場所にある。普段私たちが組織上の長、すなわち領主として認識しているのもこのご長男のほうで、宰相本人は名目的な領主にすぎない。
宰相の執務室は普段使われていないことの方が多いため、人の出入りも少ない。このため宰相の執務室への角を曲がると、それまでの人がさまざまに動いているざわついた雰囲気が、一気にひっそりと静かなものに変わった。黙って立っている衛兵がまるで置物のようだ。
至極あっさりした取り次ぎの後で通された室内は、領主の執務室としての最低限の威厳を保持しているものの、それ以上の装飾や主の趣味が窺われるような置物の類もまったくない、普段使われていないことが一目瞭然の空間だった。
「忙しいところ呼び立ててすまないね」
口調は柔らかだが、よく通る声は強さを感じさせる。これが人の上に立つ人の声なのだと、そういえば先程も思ったことを思い出した。
「いえ、遅くなりまして申し訳ございません」
「頭を上げなさい。私は必要以上の儀礼は苦手だ」
国の重鎮たる宰相とは思えない言葉に驚きつつ、顔を上げる。それとも一番上まで行ってしまうと細かな上下関係を表す儀礼的な行為は逆に気にならなくなるのだろうか。そういえば、殿下もとても鷹揚な態度だった。
現実感がない所為かどうも他所に流れがちな思考をなんとか引き戻して、執務机の向こうで立ち上がった宰相に意識を集中する。遠目で見ていたときはとても大柄な人に見えていたのに、間近に立つと意外にも小柄な方だった。養護施設のご出身だという話は本当らしい。
「立ち話は落ち着かないから、まず座りなさい」
促されるままに応接用のソファーに座る。硬い感触が向かい側に座った宰相の人柄を表しているようだ。
「稀人さまのご様子はどうかね」
短い質問の意図を測りかねて、とりあえず軽食と入浴を済まされて、今は客室にお出でであることを告げる。
「なるほど。で、そなたから見て、稀人さまはどんな方かね?」
私の話を遮らずに聞いた宰相は続けて尋ねた。相変わらず曖昧な質問の意図が掴めないまま、思った通りに答える。
「とても気さくで飾らない方だと思います」
「ふむ。それはまるで庶民のようだ、ということかな」
宰相の言葉に私は首を捻った。キーネはとても気さくで、確かに「庶民的」という表現が似合うが、「庶民のよう」と「庶民的」はちょっと違うと思う。
「確かに庶民的ではありますが、といってまるで庶民というわけではないです。私が賓客をお迎えする客室に初めて足を踏み入れたときには調度類に触るのも怖いと思いましたが、キーネさまにはそういった気遅れは感じられません」
何を思われたか、宰相はくすりと笑われた。
「ああ、そう言えば私もそうだった。うっかり傷でもつけたら一生かかっても弁償できないと、真剣に考えたものだったな」
私がここに来る前に暮らしていた養護施設では、宰相も同じ施設で育ったのだと聞かされていた。頑張れば施設の出身でも地位を極めることができると。それはまるで夢物語で、現実とはまた別のものだと感じていたのでけれど、どうやら嘘ではなかったらしい。
「それでは、そなたが彼女の話から異世界とはどのようなところだと感じたかを聞かせて欲しい」
またしても雲を掴むような質問。宰相は何を聞きたがっていらっしゃるのだろう。
「申し訳ないのですが、まだ半日しかご一緒していないので、あまり詳しくはうかがっていないのですが……」
「もちろん、そなたが感じたことで構わない」
こんなにあやふやな状態で答えるべき質問だとは思えないが、宰相はそれでも答えを要求している。私は仕方なく、考えながら答えた。
「まず侍女はいないそうです。食事でも入浴でも、ご自分のことはご自分でなさるのが当然だとお考えのようで、実際やり方を尋ねられることは何度もありましたが、されるのを待つといったことはありませんでしたから。一方で、食事や入浴といった行為そのものにはそれほど戸惑っているご様子ではありませんでしたので、その面ではあまりこちらとは変わらないのだろうと思いました」
「なるほど。他には」
「そうですね。衣類はこちらとは随分違うようで、一つ一つ着用方法をご説明しました。そういえば、あちらでは痩せている方のほうが好ましいと思われているというお話でしたから、きっと暮らし向きは豊かなのだろうと思います」
キーネさまとの会話を一つ一つ思い出しながら答えるが、宰相が期待している回答ではないらしい。
「あと、あちらでは床に直接座るのが普通なのかもしれません。床に座りたいので敷物はないかと尋ねられましたので」
「床に?」
初めて宰相の表情が動いた。何か引っかかるものがあったらしい。
「はい。実際にご用意した敷物に直接座られて、『柔軟体操』というものをなさっておられました。毎日の習慣なのだそうです」
「ほう」
何か考え込むような表情をした宰相は、更に質問を続けた。
「竜については何と?」
そう言えばその話題を忘れていた。
「あちらには竜はいないそうです」
私が言うと、宰相が怪訝そうな表情を浮かべた。
「竜はいないと?」
「はい。殿下がそう仰っていました。実際、キーネさまは逆鱗のこともご存知なかったようです」
「だが、竜と一緒に現れたのではなかったのか?」
「申し訳ありません、私はこちらにおいでになった経緯は伺っていないので、わかりません。竜が戻るのを待つとは仰っていましたが……」
あまり立ち入るのもよくないと思い尋ねなかったが、確かにキーネは竜を心配していたし、待つと言っていたと思う。考えてみれば竜のいない世界から来た人が竜を待つというのは不思議だが、あのキーネの心配そうな表情から竜とは親しい関係なのだろうということは想像できた。
「そうか……」
僅かに考える表情を見せた宰相は、すぐに何か決意したらしい。
「わかった。一度私もお会いしてみることにしよう」
頷いた宰相は私に向かって優しい笑みを浮かべた。
「貴重な話をありがとう。養護施設長からそなたのことは非常に優秀だと聞いていたが、本当に頼りなるな」
「あ、ありがとうございます」
何が役に立ったのか分からないまま褒められるのは正直不安だが、役に立たないよりはいいだろう。これで施設の評価が上がるのなら、今いる子供たちの採用も増えるかもしれない。
「忙しいところすまなかったな。一人で大変だろうが、引き続きよろしく頼む」
「畏まりました」
もう一度丁寧に礼をして私は宰相の執務室を後にした。