宰相宮・7
風呂上がりに示されたのは一揃いのシンプルな服だった。下着の上にブラウスとスカートを着て、袖のない上着を羽織るらしい。ライラは稀人には簡素すぎる服だと不満そうだったけれど、私はきらびやかなドレスではなかったことにほっとした。服は動き易いのが一番だ。
身体を拭ってから髪を濡れたまま纏め、まずはライラに下着の付け方から教えてもらう。お互いに裸同士だからあまり恥ずかしくない。これが私だけ裸だったらとても嫌だったと思う。一緒に入ってよかった。
下着は上下とも紐で調節する形式。
下半身は、いわゆる紐パンの上にレギンスというか、ズロースというか、モモヒキというか、――どう表現したらいいかよくわからないけれど、要するに簡単なズボン形式の物を履いて、ウエストを紐で止める。薄手で滑りがよく、スカートの上に響かないのがおしゃれだ。もっともスカートは割とたっぷりしているから、単に肌触りの問題かもしれない。ライラの下着はもっとごわごわしていたようだったし。
明らかに一つ一つ手縫いで造られたブラと呼ぶのはちょっと違う気がする上半身用の下着は見慣れない形だったけれど、着てみると意外にも日本のものよりもバストが安定した。肌触りと伸縮性が驚くほどいいのは、あちらにはない素材が使われているのかもしれない。
サイズで困らなかったということは、物陰から服を着た私を見ただけでスリーサイズ見破る凄腕の侍女がいるということなのだろうか。……まさか入浴中を覗かれたりしてないよね?
先程まで着ていた服は、一纏めにして袋に入れてもらった。ライラは洗わせておくと言ってくれたけれど、スーツのドライクリーニングはきっと無理だろうし、ついでに言うと、見慣れない服だからと下着をじろじろ見られるのは、たとえ一度も会わない人だとしてもとっても嫌だ。汚れた服をまた着るわけにはいかないから、帰るときは今のこの服を借りようと思う。簡素な服だそうだから、そのくらいは許してもらえるだろう。
服を着たら、更衣室の隣の部屋に案内された。開放感のある明るい室内には、大きな窓に向かってゆったりした椅子がいくつか置かれている。
「髪を拭くから好きなところに座ってください」
てきぱきと動きながらライラが言うので、促されるまま端から二つ目の椅子に座った。他に人がいなくてもこの豪華な空間の真ん中に座る勇気はない。
見た感じ、ここは風呂上がりにやんごとない方々が庭を眺めながら一休みするための部屋らしい。ライラは部屋の隅に行って、ワゴンに置かれたポットから何かを注いでいる。
「はい、どうぞ」
きょろきょろする私にライラが差し出したのは、見事なカットを施したクリスタルグラスに満たされた透明な液体だった。
「あ、ありがとう」
「喉が渇いたでしょう?」
「うん、とっても」
頷いてグラスに口をつける。まず少しだけ含むと、口の中に柑橘系の爽やかな香りが広がった。ごく僅かに甘みを感じる液体は、あちらのレモン水に近い。思わず渇きに任せてどんどん飲んでしまった。喉を転がり落ちるひんやりした感覚が気持ちいい。
さすがに冷蔵庫から出したようにキンと冷えているというわけではないが、それでもちゃんと冷たくなっている。この世界にも物を冷やす手段があるようだ。冷たい飲み物に汗が引くような気がする。
振り返ると、ポットの脇に置いてあったもっと質素なグラスから同じものをライラが飲んでいた。
「もっと要りますか?」
そういうつもりで見たわけではないけれど、美味しかったのは事実だからグラスを差し出した。
「うん、もう少しだけ」
「はい、どうぞ」
ライラが注いでくれたお代わりを、今度は味わってゆっくりと飲む。
ワゴンの上のポットは薄く水滴を纏っているから、ポット自体には保冷機能はないようだ。ということは、これを置いた人は私たちが身支度を終えるのを見計らってワゴンをセットしたことになる。
相変わらず私の前にはライラしか姿を見せないが、この飲み物にしろ、着替えにしろ、相当な人数が裏で働いていることが察せられる。宰相はかなり本気で私を隔離するつもりなのだろう。そう考えると仕方ないとは思うが、気分は良くない。
一息入れたところで、ライラが髪を拭いてくれた。目の細かな櫛で丁寧に梳かし、何度も布を換えてしっかりと拭う。こんなに人に世話をしてもらったのは小さな子供の頃以来だ。
目の前には大きな窓があり、その向こうには見事な庭園が広がっている。ここから見ることを計算されて配置されたのだろう色とりどりの花が目に楽しい。こちらの世界に来て以来ずっとばたばたしていたのが嘘のような、落ち着いた時間。まるでリゾート地の高級ホテルだ。
髪の始末を終えたら、来た時と逆に廊下を辿った。似たような廊下が続いているから違うかもしれないと思ったけれど、一つのドアの前で立ち止まったライラが廊下の奥を指差して言ったので、間違いではなかったようだ。
「この先が先程のお部屋です。殿下のなるべく近くということで、こちらを用意しました」
ライラがドアを開けるとそこは、ユーノの部屋とはまた少し趣の違う、それでも十分豪華な部屋だった。あちらは磨き込まれた艶のある茶色を主体にした重厚で落ち着いた雰囲気の部屋だったが、こちらは柱や家具が白い上に細かな飾りが施されているので、繊細で明るい感じがする。最初から女性が使うことを意識して作られているのだろうか。
見回すと、白い部屋の中で奥のテーブルに置かれた私の鞄がものすごく異彩を放っていた。何しろ黒くて飾りなどまるでない鞄だ。きっとこの鞄同様、私もこの部屋には馴染んでいないだろう。
奥にドアがあるところを見ると、ユーノの部屋同様、こちらも続きの間になっているようだ。比べればこちらの方が少し狭い気はするが、それでも日本の感覚からすると広すぎて、正確なところはよくわからない。
「何か必要なものがあったら言ってください」
私の服を入れた袋を鞄の脇に置いたライラがこちらを向いて言う。そう言われてもこの豪華な部屋で足りないものなんて思いつかな――あ。思いついた。
「えっと、ちょっとあちこち見てもいいかな」
「ええ、もちろん」
ライラに断って、続きの間も含めてざっと見渡す。――天蓋つきのベッドなんて初めて見た。感心しつつ、予想が当たったことを確信してライラに尋ねる。
「あの、簡単なものでいいんだけど、床に置いて人が座れるような敷物ってないかな?」
「敷物ですか?」
ライラが怪訝そうに首を傾げた。
「うん、そう。人が一人、足を伸ばして座れるような大きさのだと嬉しい」
「床に敷くのですね?」
「うん。難しいかな」
「何かあると思います。探してきますので、ちょっと待っててください」
ライラが出て行った後、改めて室内を見回す。床には絨毯が敷かれていて、よく掃除されてはいるとはいえ靴を履いて歩きまわっているところだから、風呂上がりに直接腰を降ろす気にはなれない。
お風呂の後は柔軟体操をするのが、中学で陸上部に入って以来の私の習慣だ。数えてみるともう十年も続けていることになる。身体を柔らかくしておくと練習や試合で怪我をしないと教えられて始めたことだけれど、陸上から遠ざかった今もこの習慣だけは残っていて、やらないと気持ちが悪い。
敷物がなければ、あのソファーの上でもできなくはないだろうか、と考えていたところでライラが戻ってきた。後ろには大柄な男の人が一人、筒状に巻いた敷物らしきものを抱えている。
「ありました。まだ使っていない敷物です」
「わぁ、ありがとう。我儘言ってごめんなさい」
新品を出してくれたと聞くと、申し訳ない気がする。持って来てくれた男の人にもお礼を言うと慇懃に礼を返された。それでも顔は微笑んでいたから、悪い印象ではないようだ。
ライラの指示で窓の近くの空いている場所に敷物を敷いて、男の人はもう一度礼をして退室して行った。
「ありがとう」
もう一度ライラに礼を言って、早速靴を脱いで敷物に座った。この際スカートなのは気にしないことにする。
「体操をするんだけど、一緒にやってみる?」
興味津津といった様子で見ていたライラを誘う。この敷物の広さなら二人で座っても大丈夫だ。
「はい」
おそるおそる靴を脱いで座ったライラの隣で、まずは身体を前に曲げる。長年の成果で私の上半身はぺたりと膝に着くのだ。
「えっ、す、すごい」
目を丸くしたライラの顔が可愛くて、思わずくすくすと笑ってしまった。
「あちらの方はみんなこんなに柔らかいのですか?」
「ううん、私は割と珍しいほう。でも、毎日続ければ誰でもみんな柔らかくなるんだよ」
試しにライラに前屈をさせたけれど、こんなことをすること自体初めてだと言うのだから、それほどは曲らない。痛くない程度に背中を押して息を吐かせるともう少し身体が前に倒れた。
「痛くない?」
「気持ちいいです。背中が伸びるみたい」
ライラは書記官だと言っていたから、きっと事務仕事ばかりで身体が固くなっているのだろう。自分の柔軟のついでにライラにいろいろ教えたら、随分喜ばれた。友達にも教えていいかと訊かれたから、もちろんと答える。ライラにはいろいろして貰っているから、少しでも何か返せるといいな。