都会・2
私は最初、その声が自分に向けられたものだとは思わなかった。だって誰かを待っていたわけじゃない。
でも、その声は少々苛立ったように繰り返された。
「おい、俺に用じゃないのかよ」
あくまでも他人事として声の主に向けた視線の先にいたのは、暗緑色のトカゲだった。カフェの丸いテーブルの上で、私のてのひら程の大きさの細身のトカゲが、後ろ脚だけで立ち上がってこちらを見上げている。
「あら、綺麗なトカゲ」
爬虫類が嫌いな女の子は多いが、私は田舎育ちだから平気だ。といって好きなわけでもないが、目の前のトカゲはとても綺麗で不快感は全くなかった。
「失礼な、どこがトカゲなんだ」
トカゲはぐいっと胸を反らせて言った。
「え、トカゲが喋った?」
まさかと思いつつぽろりと出てしまった言葉に、予想外の反応があった。
「だから、トカゲじゃねぇっての」
トカゲが――トカゲじゃないと言われてもトカゲにしか見えない――ぽんと飛びあがって叫んだ。とはいえ身体が小さいから大した声量ではない。
「トカゲじゃなければ何?」
トカゲと会話している事実がうまく飲み込めないまま、それでも会話の流れのままに尋ねると、トカゲは小さい胸を偉そうに反らせた。
「俺は竜だ」
「竜?」
「そう、竜だよ。見ればわかるだろう」
言葉とともに振られた身体の両脇のぴらぴらしたものは、確かに薄い翼に見える。身体の大きさからするとこれで飛べるとは思えないけど。
「竜って、こんなにちっちゃいのか」
現実感がないままに思ったことを呟くと、手のひらサイズの竜は怒ったようにぽんと跳び上がり、その場で見事な後ろ宙返りを見せた。いわゆるバク宙だ。長い尻尾が鮮やかな弧を描いて回った。
軽やかに着地を決めた竜は、それで気分が変わったらしい。正面から怒る代わりににやりと笑って見せた――らしい。何しろ見慣れていないから表情がよくわからないのだが。
とはいえ、その顔は確かにトカゲというには少々彫りが深く、髭らしきものも生えている。さらに、良く見れば頭にはささやかながら角らしき出っ張りがあり、その後ろにはタテガミなのか、毛のようなものも生えている。確かトガケにはこういうものはなかったはずだ。つまりは、サイズを無視するなら竜と言われればそう思えなくもない、といったところだ。無視するには大きすぎる違いだけれど。
にやりと笑ったらしい竜は、ぐいと頭を反らせて胸を張った。鱗に覆われた身体が綺麗にしなる。
「俺も女の子ってのはおやつにちょうどいいくらいの可愛らしいモノと思ってたぜ」
「なっ」
絶句した私にトカゲ改め竜は重ねて尋ねる。
「で、俺に何の用だ?」
「用?」
竜に用なんてない。実在するとは思っていなかったんだもの、用事なんてあるわけがない。
「だって俺のことを呼んだじゃないか」
「あっ」
言われてやっと思い出した。さっき竜を待ってるって言ったのは私だ。
「やっと思い出したか。で、何の用だ?」
「ご、ごめんなさい。本当に来るなんて思ってなかったから……」
申し訳なくて小さくなった私に、竜は器用に肩をすくめて見せた。
多分呆れたんだろうと思ったけれど、竜が何か言う前に、私の前で小さくひっと息を飲む音がした。
視線を上げると、今にも悲鳴を上げそうな顔で女の人が大きく飛び退くところだった。
意外すぎる竜の登場で忘れていたが、ここは通りに面したカフェだ。テーブルの上のトカゲ――もしくは竜――は、違和感がありすぎる。道行く人の中には、爬虫類が嫌いな人もきっといるはずだ。さっきの女の人はそのままこちらを見ようともせずに逃げるように小走りに去っていく。
「ちょ、ちょっと、場所を変えよう」
私は立ちあがって鞄を肩に掛け、空いているほうの手を竜に差しだした。こちらの意図が伝わったと見えて、竜は身軽に私の腕を駆け上がって肩に乗った。硬い感触が手に残ったけれど、特に重くはない。
私は駅とは反対方向にある小さな公園に向かった。あそこなら植え込みがあるから竜も目立たないはずだ。つくづく土地勘のある場所でよかった。
「この世界は随分人工物が多いんだな」
耳元で竜の声がした。声だけ聞けば同年代の人と話しているのと変わらない。口調から、多分この竜はオスだろうな、と思う。竜に性別があるのかどうかは知らないけれど。
「この辺は都会だから。私の生まれ育ったところはもっと自然に囲まれてるんだけどね」
水溜まりを避けて歩きながら答える。これが大きな竜だと畏まらなくてはいけない気がしそうだが、この竜はとても気安い雰囲気だ。私は敬語も使わずに話すことにした。
「ふうん。いろいろあるってことか」
感心したように竜が呟いたところで、目的の公園に着いた。幸い人影はない。雨が止んだばかりだからだろう。
ベンチは濡れていたので隅の鉄棒に寄りかかると、竜はすぐ脇の植え込みの葉っぱの上にひらりと移動した。なるほど、確かに飛べるらしい。トカゲとは違うってことか。
私は竜に向き合うととりあえず謝罪した。
「ごめんなさい、別に用事があったわけじゃないんです」
小さくても伝説上の存在だ。怒らせたら大変なことになるんじゃないだろうか。
「ま、いいってことよ」
意外にも竜は気さくに言い、更には勿体ないような申し出までしてくれた。
「折角来たんだ、何か用事ないか?」
気持ちはありがたいが、そう言われても用事なんか思いつかない。
「急に言われても……」
「別に思いつきでもいいぜ」
竜は久しぶりに会ったクラスメイトのような口調で言う。
「願いを叶える代わりに魂を、とか言わないよね?」
念のため訊いてみると、竜は苦笑しながら首を振った。
「魂って貰えるものなのか?」
「さ、さあ……」
「とにかく礼はいらないぜ。気軽に何でも言ってみな」
促されて、たった一つ思いついたことを口にする。多分無理だろうけど、他に思いつかないし。
「うーん……。さっき竜の背中に乗って飛んでみたいって思ったんだけど……」
「悪かったな、小さくて」
案の定気安く言ってしまった私の言葉は竜のプライドを傷つけたらしいが、この大きさの違いはどうにもならない。ぽんと跳び上がりくるりと宙返りをした竜は、今度はぽっと火まで噴いた。トカゲ型のライターみたいだ。さすが竜。
どうやらこの宙返りは竜の気分の切り替えになっているらしい。
「ねぇ、竜さんはどこから来たの?」
思いついて尋ねてみる。
「あっちの世界だ」
「あっち?」
「ま、方向はないようなもんだが。あっち側って感じかな」
説明にはなっていないが、要するに別の世界ってことだろう。竜自体がファンタジー系の存在だから不思議ではない、というか、竜と会話している時点で十分不思議なんだから、むしろ意外感は少ない。
「あっち側ってどんなところ?」
竜の世界なら中国の仙人がいそうなところだろうか。それとも西洋の中世? そういえば中国の竜と西洋のドラゴンは違うはずだけど、目の前の竜はどっちなんだろう? ええと、翼があるから西洋系? でも顔は中国系? 私には二つの違いはよくわからないし、そもそも架空の存在に判別基準があるかどうかも怪しい。
考えて込んでいる私に、竜は予想外の提案をした。
「行ってみるか?」
「え?」
「気になるなら連れてってやるぜ。入口の前には海しかなかったけどな」
「入口? 海?」
「ああ。小島の海に面した所に入口があったんだ。たまたまその前を通りかかったら、あんたの声が聞こえたから、見に来てみた。大した手間じゃないから心配しなくていい」
要するに私にあちら側を見せてくれようというらしい。この竜、意味なく呼び出したというのに、怒らないばかりか随分親切だ。
「えっと、帰れなくなったりしないよね?」
一応警戒して訊いてみる。
「短い時間で、入口から離れなければ大丈夫だろう。その代わり海しか見られないけどな」
「海、か」
言われた途端に海が見たくなった。この都会では海が見えない。故郷では家から少し行けばもう遠くに海が見えていたのに。
「あっちは天気はいいの?」
「ああ。からっと晴れてたぜ」
それはなかなか羨ましいと思った。この湿っぽい天気は不快だ。
「じゃあ、ちょっとだけ、ね。竜さん、お願いします」
簡単に決意をして頭を下げる。
「その竜さんっての、なんとかしないか?」
返事の代わりに竜が提案した。
「あ、そうか。竜さん、名前はあるの?」
「ハーヌって呼んでくれ」
「ハーヌ?」
「ああ、ハーヌだ」
呼び易い短い名前でよかった。
「私は後藤雪音」
さらりと名乗った音は、ハーヌには発音しにくかったらしく、かろうじて語尾だけが繰り返された。
「……キネ?」
「うん、それでいいや。キーネって呼んで」
私は自分の名前があまり好きではない。「後」とか「雪」とかってイメージが暗いし、名字に濁音が入っているのもイマイチな感じだ。しかも「雪音」ってのは楚々として大人しげで綺麗な上に抽象的すぎて、私に似合わない気がする。だからハーヌの発した硬質な音に心が惹かれた。
「じゃあ行くぞ、キーネ」
言いながらハーヌが飛び上がり、私の肩にそっと足を掛ける。次の瞬間、私の周囲は乳白色の光に包まれた。