宰相宮・6
ライラリアさんに案内されて廊下を辿った先にあったのは、温泉旅館の大浴場に似た場所だった。先に服を着たまま覗かせてもらうと、広々とした石の床とそこから下がった場所にある巨大な浴槽が目に入った。高い位置にある窓から差し込む日差しが湯気に明るい線を描いている。微かに漂う鉱物質の臭い。
私のよく知る温泉との違いは洗い場にシャワーやカランがないことと、木製のデッキチェアーのようなものがいくつも並んでいること、後は見慣れない道具があること。これは多分シャワーの代わりになるものや、石鹸入れなどだろう。
他が西洋風だったから温泉と言われても一人用のバスタブを想像していた私は見事に裏切られたわけだが、この温泉を拓いたのが日本人であることを考えれば日本風の浴槽なのはむしろ当然かもしれない。客室が全部洋風のホテルに大浴場があるのに似ているとも言える。
誰もいない広い浴室を見渡して、念のためライラリアさんに確認する。
「ここって一人用ってわけじゃないよね?」
「はい。ここは貴族のご婦人方がご家族で入られたり、ご友人同士で交流を深めたりなさる為の場所なので、特にお一人限定というわけではありません」
――なんと、貴族同士で裸のつきあいをするのか。
感心している私にライラリアさんは改めて頭を下げた。
「本日は他にご利用される予定の方はいらっしゃいませんので、ゆっくりお寛ぎください。侍女も私が勤めさせていたただきます。慣れておりませんので至らぬこともあると思いますが、よろしくお願いいたします」
言われて気がついた。高貴な方々はお風呂に入るのにも侍女が着くらしい。それって、私は裸で、服を着たライラリアさんに洗われるのよね、きっと。
案の定ライラリアさんはてきぱきと棚から薄い布でできた服らしきものを取り出して広げている。冗談じゃない、私だけ裸なんていくら女同志でも恥ずかし過ぎる。
慌てて一人で入りたいと言うと、設備その他の使い方が分からないだろうと言われてしまった。それは確かにそうだけれど、だからと言って引き下がれる問題ではない。押し問答の末、結局私とライラリアさんは一緒にお風呂に入ることになった。二人一緒なら、普通の温泉と同じだ。
私は渋るライラリアさんを「正式な侍女ではない」というユーノ譲りの理屈と、誰も見ていないから告げ口する人はいないという事実と、一緒じゃないなら私も入らないという我儘な主張で口説き落とした。少々強引だったのは忘れることにする。
二人で並んで洗い場のデッキチェアに浅く腰かけて、海綿やら石鹸やらの使い方を教わりつつ、自分で身体を洗う。本来はデッキチェアに横たわった貴婦人の身体を侍女が洗うらしい。
ライラリアさんが背中を洗ってくれたので、私もお返しにライラリアさんの背中を洗ってあげた。凄く細くて華奢な背中はすべすべで綺麗だ。これも温泉の効果なのだろうか。
ライラリアさんに依ると、宰相宮はスズーキの拓いた源泉の上にあり、宰相の家族用、宿泊している貴族用、使用人用、など使う人に応じていくつもの浴室があるらしい。宰相宮は県庁のような場所も兼ねていて一般の人が訪れる部分もあるそうだが、なんとその一角にも入浴施設があり、普通の市民が利用できるようになっているという。
「それでも毎日来るわけにはいきませんから、宰相宮での仕事はとっても人気があるんですよ」とはライラリアさんの弁。
随分遠慮がちだったライラリアさんの態度も、一緒にお風呂に入ったことで随分ほぐれた気がする。裸のつきあいって素晴らしい。
身体を洗った後で湯船につかるのは日本の温泉と同じだ。ちゃぽんと肩までつかると自然にふうっと吐息が漏れた。疲れがお湯の中に溶けだして行くような気持ちいい感覚。
「そういえば、ちゃんと謝ってなかったよね」
落ち着いたところでやっと思い出し、ライラリアさんの方に向く。お互い裸なのは変だけど、忘れないうちに言わないと。
「何をですか?」
ライラリアさんが首を傾げた。細い首に張りついた濡れた遅れ毛が色っぽい。
「私の所為で本来の仕事ではないことに巻き込まれてしまって。侍女ではないのでしょう? 迷惑をかけてごめんなさい」
こちらの序列は分からないけれど、侍女より書記官のほうが格上なんじゃないだろうか。
「ああ、そのことですか。皺寄せが行っているはずの同僚たちには申し訳ないですけれど、私自身は光栄な仕事ですし、楽しいですから。キーネさまのお気になさることではありません」
「楽しい?」
「ええ。ご一緒させていただいているだけで、私の知らない世界のことが少しずつ分かりますから」
「そうかな?」
私、何も有益なことは言っていないと思うけど。
「侍女がいない世界からいらしたことはもうよく分かりました。そんな世界があるとは考えたこともありませんでしたが、キーネさまを見ていると実際にあるんだと思えます」
ライラリアさんは真面目な顔で言う。
「ああ、そういえばそうだね」
なるほど、そのレベルで新鮮なわけだ。
「それに、勤務中にのんびりお風呂に入れることなんて、他ではまずありませんし」
ライラリアさんが悪戯っぽくくすりと笑った。
「あ、それはあっちも同じだ」
つられて私もくすくすと笑う。なんだかすっかり仲良しな気分だ。
「侍女がいないってのを分かってもらったところで、キーネさまって呼ぶのをやめて貰う訳にはいかない?」
先程から気になっていたことをついでに提案してみる。
「本当はユキネって名前なんだけど、キーネってのは気に入ってるから、キーネって呼び捨てにして欲しいな」
ハーヌがつけてくれた私の名前。一瞬どこに行ったかわからない竜の面影が脳裏を過る。
本当はあちらでだって、私を呼び捨てにする人は数えるほどしかいなかった。それは多分私が人と接するときに壁を作っていた所為だろう。だから、この西洋風の世界でくらい、西洋風に名前で呼び合うフランクな関係を築いてみたい。
ライラリアさんはしばらく躊躇っていたけれど、結局条件付きで了解してくれた。
「私の事はライラと呼んでいただけますか?」
「うん、わかった、ライラ」
さっそく呼んでみるとライラはにこりと嬉しそうに笑った。
「キーネ、温まったらそろそろ髪を洗いませんか?」
言われてお湯から上がる。今度も自分で洗うと言ってみたけれど、勤務中のライラは髪を洗うわけにはいかないから、道具を自分で使って見せることができないと言う。確かに、ドライヤーがない世界では濡れ髪を乾かすのは時間がかかりそうだ。仕方なく今回は甘えることにした。次からは自分でできるようにちゃんと見ておこう。
促されてデッキチェアに横たわる。背凭れの頭の部分が後ろに倒れるようになっていて、そこに桶のようなお湯を溜める装置をつけるらしい。美容院のシャンプー台に似ているから、それほど違和感はない。
私が寒くならないようにとライラは薄い布を身体に掛けてくれた。身体が隠れるのがありがたい。
「キーネの世界ではみんなそんなにスタイルがいいのですか?」
髪を泡立てながらライラが訊く。
「うーん、まず、スタイルがいいってのいうのは、こちらではどういうことを指すの?」
私にとってはちょっとデリケートな部分なので、先に確認する。
「ええと、あくまで一般論ですが、男女問わず背が高くて肩幅が広いこと、その上で女性は胸と腰が豊かで胴がきゅっと細くなっているのが、いいとされています。キーネさまはこちらでは理想的な体型ですね」
「そうなんだ、ありがとう」
「あちらでは違うのですか?」
ライラの声に怪訝そうな色が滲む。
「胸が大きくて、胴が細いっていうのは同じなんだけど、あちらでは全体に華奢で細いことも重要だから、私はそこからは外れていたな。細くて背が高い人も素敵だとされていたけれど、実際にはライラのように小さくてほっそりしていて、それでいて胸の大きい人が男の人には人気があったと思う」
「そうなのですか。違うものですね」
「私は骨格が大きいから、ダイエットしても細くならないんだよね」
私の体格はコーカソイドの遺伝子の所為だろう。Lサイズの服でも肩幅がきつくて入らないことがよくある。いっそ胸がないほうがまだよかったのだろうが、そこも遺伝子の所為でしっかりボリュームがあるので、どうも威圧感を与えるらしい。成長期以降は嫌がらせまがいのセクハラを受けたことが何度もあった。
「ダイエット?」
あまりこちらでは使わない言葉らしくて、ライラが訊き返した。
「うん。食べる物を減らしたりして、体重を落とすこと。痩せているほうが綺麗だと言われているから、女の子は大抵ダイエットを気にしてるの」
「そうなんですか」
ライラが息を吐くように言う。
「こっちではダイエットってしないの?」
「そうですね、あまり聞きません。胴が細いほうがいいとはいえ、女性は全体として柔らかくてふっくらしているのが魅力的だとされていますし、何よりも貧しい者は太ることができません。そもそも細い者は力が弱くて働くのに向きませんから、痩せている人は好まれません」
「そうなんだ」
貧しい者は太ることができない、そんな場所は地球上にだっていくらもあるだろう。でも私はそのことを現実的な問題として考えたことがなかった。
「いくらお金持ちの方でも、あまり不健康にぶくぶくと太っているのはどうかと思いますが……」
そこまで言って、ライラは暫し無言で私の髪を洗うのに没頭した。濯ぎを終えて軽く纏めてくれる。
立ちあがった私と再び浴槽につかりながら、ライラはそっと言った。
「私は生まれが貧しかったので、それで背も低いし、身体も細いんだと思います」
沈黙とそれに続く低い声音が、ライラの気持ちを物語っていた。私が私の体型にコンプレックスを持っているように、ライラもまた自分の体型に引け目を感じているらしい。
「あちらに行ったらライラは絶対にすごーくモテるはずなのに。ううん、こちらでも本人が知らないだけで、憧れている人は多いんじゃないの?」
わざと明るい声で言ってみる。結局は自分が自分自身を受け入れるしかないのは、きっとこちらもあちらと同じはずだ。だったら明るく通り過ぎるしかない。
「そうだといいんですけど」
言ってライラも明るく続けた。
「私よりも、キーネこそ男性が放っておかないと思いますよ」
「えー、経験ないから想像できないなぁ」
私はわざとふざけた調子で答えた。そう、これは軽いガールズトークだということにしておこう。裸のつきあいだもんね。