宰相宮・4
結論から言うと、宰相との対決は持ち越しになった。兵士たちに連れて行かれた先で待っていた宰相は、疲れたような表情で「まずはお休みください」と言ったのだ。
多分宰相は火事の後始末で忙しいんだと思う。兵士たちに連れられて通り過ぎた廊下では、炎こそ見えなかったものの煙の臭いが漂っているところがいくつかあったし、あちこち人の声や物音でざわついていた。窓の外は激しい雨でよく見えなかったけれど、きっと燃えた庭がいくつもあったに違いない。さらにこの豪雨だと、そちらの被害も心配だ。街に影響がなければいいんだけど。――これで洪水でも起こったら、街の人に申し訳なさ過ぎる。
私としても、このぼろぼろの状態で面倒な交渉事に関わるのはごめんだったから、宰相の申し出に正直ほっとした。多分ユーノもそれは同じだったはずだと思うけれど、それでもちゃんと「客待遇だな」と念を押していた。そりゃあ無人島に置き去りにした相手の本居地だものね、警戒するのが当然だ。
対する宰相も、穏やかに頷きながらもちゃんと条件をつけてきた。
「殿下の部屋の隣にある客室を整えさせますので、稀人さまにはそちらをお使いいただきます。必要なものはすべて用意させますので、なるべくご在室していただきますようお願いいたします」
要するに勝手に出歩くなってことね。お願いと言いつつ、問答無用な雰囲気なのが気に食わないけど、ここで逆らう気力はない。
「わかりました」
簡単に答えた私は、続いた宰相の言葉に少々驚いた。
「身の回りの世話はライラリアにさせます」
「えっ」
脇に居たライラリアさんがびっくりしたように声を立てた。兵士の長らしき人に同行するように言われたライラリアさんは大人しく一緒に来て脇に控えていたのだけれど、自分の名前が呼ばれるとは思っていなかったらしい。
「あ、あの、申し訳ございませんが、私は侍女の仕事は手伝い程度しかしたことがありませんので、とても勤まるとは……」
なるほど、びっくりにはそういう理由もあったのね。ということは、宰相の思惑は私たちと一緒にいたライラリアさんが余計なことを知っていると困るから、この際一纏めにしておきたいって辺りかな。折角助けてくれたのに、とんだとばっちりだ。大体ろくに話す暇もなかったのにね。
「そなたが何においても有能なことはよく知っておる」
宰相が鷹揚に頷いた。ライラリアさん、若いのにトップに認められているのね。たしか書記官って言ってたけど、きっと優秀なんだろう。
「しかし、稀人さまに粗相があっては……」
ライラリアさんは相当困っているようだが、宰相は動じない。
「心配するな。稀人さまはご自分のことはご自分でなさる方だ」
――え? 私のこと知ってるの?
思わずきょとんと見つめた私に、宰相はにやりと笑って見せた。お前のことなどお見通しだとでも言いたげな、タチの悪い笑み。感じ悪いったら。
それにしても、この宰相の態度はなんだかおかしい気がする。この世界で出会った人はまだ僅かだけれど、ユーノやライラリアさんはこちらが恐縮するほどとても丁寧に応対してくれる。逆にここに連れてきた兵士たちは私に関わりたくないとでもいうように、歩きながらさりげなく私と距離を取ろうとしていたし、廊下ですれ違った人の中には私を見てぎょっとした立ち竦んだ人もいた。なのに、宰相にはそんな気遅れは感じられない。一応丁寧な言葉遣いはしているものの、私をただの小娘だと認識している、そんな態度だ。
とはいえ、細かいことを追及している余裕は私にはなかった。とにかくどこかに落ち着いて座りたい、ただそれだけを思って私は何も言わずに宰相の指示のままに兵士について廊下を歩いた。
連れて行かれたのは広い応接間のようなところだった。部屋の広さに見合った高い天井、上が丸くなった観音開きの大きな窓。絞られたカーテンが描くドレープが綺麗だ。艶やかな飴色の柱の間の壁には手の込んだ模様の織物。ところどころにある飾棚には壷に入った生花が置かれ、押しつけがましくない程度に芳香を漂わせている。
ライラリアさんの説明では、ここはユーノが先日から滞在している部屋の中の一室らしい。ホテルのスイートルームみたいに続きの間になっている中の応接間って感じかな。
「稀人さまのお部屋は今用意をさせております。手を洗うお湯と軽食は今お持ち致しますが、他に必要なものはございますか?」
確かにライラリアさんは有能らしい。この状況でもやってきた人たちにてきぱきと指示を出して、こちらの希望まで尋ねてくる。
「いや、とりあえずその二つでいい。食事も簡単でいいからすぐに食べられるものにしてくれ」
「かしこまりました」
ユーノの答えに丁寧に頭を下げて廊下に出て行ったライラリアさんは、すぐにワゴンを押して戻ってきた。ワゴンの下の段には大きな壷。上には洗面器とタオルと石鹸らしきものが乗っている。
ユーノと交代で手と顔を洗ったら、呆れるほどお湯が汚れた。二度ほどお湯を換えてやっとさっぱりしたところで、ノックの音がした。
ライラリアさんがドアを開けると、再びワゴンが運び込まれた。今度は二台。ライラリアさんの指示でテーブルに食事が並べられる。
湯気の立つスープ、私には何だかよくわからない一口大のオードブルらしき盛り合わせ。メインはカラフルな食材を丸くて薄いパンらしきもので挟んだサンドイッチ風。更に食べ易いサイズにカットして美しく盛られたフルーツらしきものも用意されている。
お皿がセットされると、配膳してくれた人たちは一礼をして去って行った。終始無言だったのは、会話をするなと言われているのか、職業的に喋ってはいけない決まりなのか、どっちだろう。
「簡素なもので申し訳ありません。晩餐はきちんとしたものをご用意いたしますので、今はこれでお凌ぎください」
本当にすまなそうにライラリアさんが言う。確かに分類的には軽食だけど、私の感覚ではとても「簡素」とは言えない。量はたっぷりあるし、見た感じも美味しそうだ。お腹がきゅるっと鳴ったのが聞こえていないといいんだけど。
席に着くと美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。
「どうぞお召し上がりください」
「ライラリアさんは食べなくていいの?」
食べない人に見られるのは落ち着かないから尋ねてみた。
「お気遣いありがとうございます。私はつい先ほど済ませましたので、お気になさらず」
そうか、もうお昼過ぎなんだ。いろいろありすぎて時間の感覚がなくなっている。
「じゃあ、とりあえず座ってくれない? 立っていられると落ち着かないから」
「私は壁まで下がっておりますので……」
ライラリアさんは困った顔をした。座ってはいけない決まりがあるらしい。
「あなたは侍女ではないのだろう?」
口をはさんだのはユーノだった。
「はい、そうです」
「だったら座ればいい。侍女の規則はあなたには当てはまらないし、多少礼儀には外れても稀人さまのご希望だ。私も構わない」
「畏まりました。では、お言葉に甘えて失礼いたします」
ユーノの言葉に頭を下げてライラリアさんは後ろに引いた椅子に背筋を伸ばして浅く腰を下ろした。もっと寛いでくれてもいいのにと思うけれど、それは言っても仕方がないだろう。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なくいただきます」
私はお皿に手を伸ばした。