宰相宮・3
走るのが得意でよかったと、走り始めた直後はそんなことをちらりと思ったけれど、それはすぐに関係なかったことを思い知った。走るのが早いとか、得意とかっていうのは、あくまでも走る方向が分かっていて、そして走れる状況があって初めて言えることだ。今はまず、どっちに進めばいいのかが分からない。
周囲は私より背の高い木々の間を遊歩道が曲がりくねって続いている上に、炎と煙でうまく見通せない。建物は石造りだったから、中に逃げ込めばいいということは分かるけれど、どこをどう通れば建物に辿りつけるのか見当もつかない。
それでも足を止めるのが怖くて、私はユーノと手を繋いで走り回った。ここではぐれるのは絶対に嫌だ。
煙はどんどん増えていて、もう息苦しいほどだ。炎も先程より勢いが増している気がする。焙られた頬が熱い。ごおっという物が燃える音に、ぱちぱちという木々が爆ぜる音が混じる。背の高い木の下を走り抜けると、上から火の粉が降ってきた。これは真剣にヤバイかも。
焦れば焦るほど判断力が鈍るのが自分で分かる。さっきから同じところを回っているだけのような気がしているけれど、もう何も考えることができずに、ただユーノに手を引かれるままに足を動かす。
ユーノは王子さまだからそのうち助けが来るはずだと思いたい。でも、宰相宮の人たちは私たちがこの中庭に居ることに気づいていないかもしれないし、更にさっきの遣り取りを考えると、宰相にとってはユーノに気づかなかったことにして見殺しにしたほうが都合がいいかも、なんとことまで思い浮かぶ。
ちらちらと悪い想像に駆られながらも、二人して右往左往しているうちに、なんとか建物の傍に辿り着いた。ラッキー。それともユーノが誘導してくれたのかな。
「このまま進んで入口を探しましょう」
ユーノの言葉に頷いて、とりあえず炎の見えない方向に進もうとした、その時。
「そっちは駄目です」
突然、澄んだ高い声が聞こえた。
「え?」
思わず足を止めて周囲を見回したけれど、それらしい人影は見つからない。
「殿下、そちらは行き止まりです。反対に進んでください」
続いた声に見上げると、二階の窓から身を乗り出すようにして女の人が叫んでいた。
「今ならまだ通れるはずです。目の前の燃えているところを通り抜けてちょっと行くと、入口が見えます」
女の人は必死に手振りを交えて、私たちが進もうとしていたのとは反対方向を示している。
続けて何か言おうとした女の人は、煙を吸い込んだのか、けほけほと咳き込んだ。それでも必死に言葉を続けようとしているのが見て取れる。
「わかった」
ユーノはそれ以上時間をかけずに、短く言って私の手を強く握って走りだした。もちろん私も付いていく。
炎の見える方向に進むのは本能的に抵抗があったけれど、燃えているのは植え込みだけで敷石の真ん中は通り抜けることができた。すぐに女の人が言ったとおりに、小さな木の扉が見えてきた。通用口らしい。
更に足を速めて、扉まであと数メートルのところまでやってきた時、炎の燃える音の向こうから、微かに咆哮が聞こえた。
――ハーヌの声だ。
切羽詰まった状況の中でも、そんなことを思った時。
ビシャアアア、と金属的な鋭い音がして、目の前の光景が一瞬ホワイトアウトするのと同時に地面が揺れた。
あまりの衝撃に、それが落雷だとわかるまでに間があった。思わずユーノと顔を見合わせた後、空を見上げる。先程まで晴れていたはずの空は、いつの間にか煙とは別の真っ黒な雲に覆われていた。
茫然と見上げた視線の先で、稲妻が走る。同時に響く、ごろごろなどと生易しい音ではなくバリバリと何かが裂けるような轟音。
私は原始的な恐怖にかられて扉目掛けて全速力で走った。手を掛ける前に、扉が中から開かれる。開けたのは先程の女の人だ。
招かれるままに女の人の脇をすり抜けるようにして私とユーノが扉の中に飛び込んだ瞬間、激しい雨音が他のすべての音をかき消した。
振り向けば、真っ暗になった中庭に滝のような雨が叩きつけている。あまりの雨脚に消し止められてしまったらしく、炎の色はもうどこにも見えない。目の前の敷石に跳ね返る水しぶきがまるで白い植物が生えているように見える。
茫然と見ていた私の腕にそっと触れるものがあって、やっと私は我に返った。見上げるとユーノがこちらを見ている。私が顔を向けたのでユーリが何か言ったが、雨の音が大きすぎて声は聞こえなかった。
私の表情で伝わっていないのが分かったのか、ユーノが扉を閉める。それでも扉越しにまだ雨音は聞こえていたが、どうやら会話はできる程度になった。
「お怪我はありませんか」
「うん、大丈夫」
こくりと頷く。言ってから改めて確認したけど、どこも怪我も火傷もない。服が相当汚れてるところを見ると、きっと顔も酷いことになっているんだろうけど。
その点はユーノも同じで、顔にも髪にもうっすらと煤がついている。手で払ったのか頬には汚れが斜めの筋になっているけど、それでもイケメンのままなのにいっそ感心する。
「ありがとう。お蔭で助かりました」
ユーノは私の無事を確認すると女の人に向かってお礼を言った。私も慌てて頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「いえ、お役に立てて何よりです」
安心したように微笑んだ女の人は、改めてよく見るとかなりの美人だった。頭の後ろの低い位置でまとめた茶色いふわふわの巻き毛に青い瞳。賢そうだけれど、どこか可愛らしい印象の卵型の整った顔。多分私とそう大して違わない年齢だろう。紺色のガウンの下は、足首までのスカートに実用的な革靴。飾り気のない質素な服だけれど、清潔そうだ。
「私はここで書記官をしております、ライラリア・アーツと申します。まずは客間までご案内いたします。それとも先に宰相か医務官を呼んできたほうがよろしいでしょうか」
ライラリアさんはちょっと困ったように尋ねた。それはそうだろう。こんなところで突然王子さまに会っても、どうしたらいいかわからないに決まってる。
「その必要はないようだ」
ユーノが廊下のあちらを見て言った。視線の先を追うと、数名の兵士がこちらに向かって歩いてくるところだった。