宰相宮・1
今回の空の旅は一時間ほどだったと思う。朝の空気は冷たかったけれどマントにすっぽり覆われていたので覚悟したほどは辛くなかった。むしろ澄んだ空気を通して見下ろす朝の海の美しさが印象的だった。
最初は小さな船が小島の間に点々と見える海域の上を飛んだ。目を凝らすと時折網のようなものが船の周囲にぱっと広がるのが見えたから、漁船が操業していたのだと思う。
やがて小島の多い海域を抜けると今度は前方に現れた陸地に目が奪われた。一際目立っているのは奥の方に青く霞む山脈だった。他のものがほとんど見分けられないうちに見えているから、かなり高いのだろう。
山脈を眺めている間も陸地はぐんぐんと迫り、次第に細部が見えてくる。全体に緑が多い印象だ。山脈の次に目を引いたのは大きな河。河口は港になっているようで、目の下の海には最初に見たものよりはかなり大きな帆船がいくつも航跡を描いている。あれがドゥエラの港だろうか。
一瞬大河が国境になっていると言われたのを思い出したけれど、あれはもっと西の話だったと思いなおした。今見えているのが大河ではないのなら、その国境の大河は本当に広い河なんだろう。
「上から見ると、よくわかるものですね」
背後でユーノが呟いた。
「え?」
「こんなに我が国土を広々と見渡したことはありませんでした。事が片付いたらハーヌさまにお願いして一度我が国を上からしっかり見たいですね。まるでよくできた地図を見ているようです」
よく考えれば実物を描いたのが地図なのだから、ユーノが言っていることは反対なわけだけれど、言いたいことはわかった。私が見ればただの綺麗な景色だけど、きっとユーノにはもっと違う政策的な問題が見えるんだろう。
振り返らなくても、ユーノが一生懸命彼の国土を見渡しているのが気配で感じられた。
陸地がさらに近付くと、ハーヌはぐっと高度を上げた。事前に聞いていなかったからちょっと驚いたけれど、多分下から見つけられて騒がれたら面倒だから、目立たないようにしたんだと思う。竜と稀人と王子さまってどれも珍しいらしいし。
高みから見降ろす河口の街は、よくできたCGのようだった。行き交う大小の帆船、ちょこちょこと動く小さなボート。ぎっしり並んだ建物と、その間を縫うように進む馬車の列。たくさんの人々。
ユーノがヨーロッパ風の王子さま然とした風貌だから街並みもヨーロッパ風の整然とした石造りの物を想像していたけれど、実際はもっと南の地域の雑然とした賑わいに近いかもしれない。一つ一つを聞きわけることのできない雑多な喧騒が、上空にまでうわーんと響いている。
港から広がる街は小高い丘に向かって坂を這い上がっている。丘の上には他の建物とは雰囲気の違う立派な建築物。宮殿とかお城と呼んでもいいかもしれない。高層建築に慣れた私には低いと感じられるけれど、その分前後左右に大きく広がり、いくつもの中庭があるのが見える。あれがきっと宰相宮だろう。
もっとよく見ようと乗り出そうとした時、ハーヌが言った。
「しっかり掴まってろよ」
「え、あ、はい」
間抜けな答えをしつつ改めてたてがみをしっかり掴むと急降下が始まった。慌てて風圧から逃れるようにハーヌに身を伏せる。耳元で風が鳴り、先程の宮殿がみるみる迫る。息を詰めて見つめるうちに、ぐっと重力がかかったと思うとふわりと身体が浮いたように感じた。勢いを殺すようにハーヌが中庭を旋回する。すぐ脇にハーヌの尻尾が見えたが、目が回りそうですぐに視線を遠くに向けた。
回転が止まったのは地上から三メートルくらいの高さのところだった。鳥と違って空中に静止している。さすが竜だ。
周囲はほとんどが二階建てで、正面だけが三階になっている。とはいえ二階部分がバルコニーになっていて、中庭がかなり広い石畳であることを思えば、偉い人がバルコニーに出た際の警備をする為に作られた三階なのかもしれない。そう思えるほど、二階部分には存在感があった。バルコニーの奥の観音開きの大きなガラス窓、彫刻の施された柱。金色に光る金具。他の部分は質素と言えるほどあっさりしている中で、そこだけがはっきりと権勢を感じさせる。
私が建物を観察しているうちに、やっと中庭にばらばらと衛兵らしい人たちが走ってきた。手には槍。反応の遅さは、きっと空から侵入することを想定していなかった所為なんだろう。いきなりお城の真ん中に現れる敵なんて普通はいないよね。
やがて集まってきた衛兵たちの中から隊長らしき人が進み出た。
「何者だ」
勇ましい誰何をユーノが一喝した。
「無礼者。我が顔を忘れたか」
――おお、ちゃんと王子さまだ。
ユーノは私とハーヌにはいつもとっても腰が低かったから、逆に違和感があった。他の人にはちゃんと偉そうなんだとわかって、変な感想だけど、なんとなく安心した。
「こ、これは王太子殿下」
隊長はユーノの顔を知っていたらしい。慌てて槍を引いて敬礼した。周囲の衛兵たちも驚いた顔をしつつ、それに倣って敬礼する。
「宰相は戻っているな」
「は、はい」
「ここに呼べ」
ユーノはいかにも命令をし慣れた口調できっぱりと告げる。
「は、はい、只今」
「その必要はない」
上ずった隊長の返事を遮ったのは、よく響く落ち着いた声だった。
視線を上げるとバルコニーに一人の男性が立っていた。後ろのガラス戸が少しだけ開いていて、カーテンが揺れているのが見える。あそこから出てきたのだろう。
「殿下、お早いお戻りですな」
男の人はゆったりと言った。絶対に驚いているはずなのに、そんな様子はまったく感じさせないのが凄い。衛兵たちのほとんどは、みんな目を丸くしてこちらを凝視しているし、中には口をぽかんと開けたままだったのを注意されて慌てて閉じた人までいたのがちらりと見えた。どう考えてもあちらが普通の反応だろう。
「宰相、他に何か言うことはないのか」
ユーノも落ち着いて問いかけた。
予想したとおり、この人が宰相らしい。ユーノを置き去りにした事実と宰相という肩書から、でっぷりと太って脂ぎったおじさんを想像していたのだが、実際に目の前にした人の印象はかなり違った。
比べるものがないから分かり難いけど、多分体格は中肉中背。特に太っている印象はない。服装もゆったりした上着の腰にベルトを締め、下はシンプルな黒いズボンという至って普通な印象。きらきらした飾りもついていない。濃い茶色の髪の下には、いかにも頭のよさそうな顔。目の光の強さが只者ではないと感じさせる。
後ろ暗いことがあるはずなのに、一人きりでお伴も連れずに出てくるのは、舐めているのか、腹をくくっているのか。どちらにしろ厄介な相手だ。ユーノはともかく、私にはとても太刀打ちできそうにない。
「はて、何のことでしょう。私は鍛錬の為に一人で残りたいとの殿下の仰せに従ったまで。お帰りの方法は予想外でございましたが、私が申し上げることはございません」
「なるほど、そういうことにしたのか」
堂々としらばっくれた宰相に、ユーノは感心したように言った。
「それで、探し物はお前の手の中にあるのだな」
続けて断定したユーノに、宰相は怪訝そうに首を振った。
「いえ、殿下が鍛錬を兼ねてお一人でお探しになると言うことでしたので、私は何も存じません」
「いや、持ち帰ったのはお前だ」
ユーノは尚も断言する。状況証拠しかないのに、堂々と言い切るユーノに密かに感心した。少なくとも私にはできない。
「そうだといいのですが、無理を仰られても困ります」
宰相もあくまでも引く気はないようだ。
どうするんだろう、と思ったときにユーノが爆弾発言をした。
「誤魔化しても無駄だ。ここにおられる稀人と竜、お二方がここにあると仰っている」
――えっ、私ですか?