入江・6
目が覚めてすぐは、自分がどこに居るのかわからなかった。薄暗い中で布製の見慣れない天井を見上げてしばらく茫然としてから、やっとゆっくりと昨日のことを思い出す。夢ではなかったらしい。それともこれもまだ夢の続きだろうか。夢から覚めた夢を見ているということもあるかもしれない。
日頃から寝起きがあまりよくない私は、ぼんやりと夢について考えながら身支度を整えた。多分冷静に考えればまさしくこれが寝ぼけた考えなのだろう。
天幕を出ると目の前には穏やかな入江と綺麗な海、晴れ渡った空。大きく息を吸うと、潮の香りが肺いっぱいに広がる気がする。まったく予想していなかったとはいえ、気分転換に訪れる旅先としてはこんなに素敵な場所はないだろう。やっとはっきりと目が覚めた私は、うん、と一つ大きく伸びをした。
東側――この世界の太陽が東から昇るとして、だけど――に山があるから太陽こそ見えないが、空はもうすっかり明るくなっている。昨日は結構早く寝たはずなのに、どれだけ寝ていたのか、私は。自分でも呆れたが、その分体調は上々だ。
昨夜の落ち込みが嘘のように前向きな気分で、私は焚火の脇の二人――ええと、一人と一匹? 一頭? 竜ってなんて数えるんだろう? 羽根があるけどきっと一羽じゃないよね――に声をかけた。
「おはよう」
「おはようございます、キーネさま」
王子さまは朝も爽やかだ。
「おはよう。気分はどうだ?」
ハーヌは相変わらずの保護者モード。昨日があんなだったから、心配かけちゃったよね。反省しよう。
「うん、すっかり元気。昨日はごめんなさい」
「元気ならいいんだ」
昨日半日一緒にいたら、巨大なトカゲの顔でも表情がなんとなくわかるようになった。今は優しく笑っている。
「申し訳ありませんが、朝食は簡単なものになります」
焚火にかけた鍋をかき混ぜていたユーノが言う。朝からマメな王子さまだ。
「ごめんね、全部やらせちゃって」
「いえ、キーネさまは客人ですから」
昨日から思っていたけれど、王子さまにこれだけいろいろさせる稀人ってしみじみ立場が強い。身分的には王子さまに目通りすらできない下働きでもおかしくないはずだ。といって、実際に食事を作れと言われても何をどうしたらいいのか全然わからないから無理なんだけどね。
出されたのは昨日のスープに豆を入れたものとパンだった。
「簡単なものですみません」
ユーノはまだ言う。私は気にならないけれど、王子さまにとってはとっても粗末な食事ってことなのかもしれない。
「私、軍隊の食事ってもっと粗末なのかと思っていた。カチカチのパンと水とか……」
熱いスープをふうふうと吹いて冷まして口にする。味がよく沁みていて美味しいし、何よりちょっと肌寒いのがお腹の中から温まって気持ちがいい。
「そういう時もあります。陸上を長く行軍する場合は運べる荷物に限界がありますから。今回は船でしたから積み荷に余裕があった上に、昨日来たばかりですし。ここでの滞在が長引けばだんだんスープの中身が減ったはずですが」
笑い含みにユーノが語る。なるほどね。
「うまくいけば、今日の昼にはきちんとした食事をしていただけると思います」
「宰相から宝玉を取り返せたらってこと?」
「はい」
自分のスープを食べながらユーノが頷いた。
「作戦はあるの? いきなり行って返してって言っても、素直に聞いてくれないでしょう?」
「とにかく交渉するしかありませんね」
ユーノは短く答えて、それ以上教えてくれなかった。私が聞いてもわからないってことかもしれない。確かに国政の事情なんて立ち入りたくないから、聞かない方がいい。
食事を終えて簡単に辺りを片づける。迎えが来るはずだから、箱から出したものはしまったけれど、箱自体は置きっぱなしだ。ハーヌに乗せるわけにもいかないしね。
ユーノが手早く紙に何かを書いて、目立つ場所に置き、飛ばされないように重しを乗せた。私には読めない文字。
「何て書いたの?」
「私は一足先に自力で帰るので、荷物だけ持ち帰るようにと」
確かに、迎えに来たユーノがいなかったら、来た人たちは困ってしまうだろう。
「話している言葉は分かるのに、全然読めないのって不思議。ううん、逆だね。世界が違うのに普通に話せるのが不思議」
ユーノの書いた記号の羅列を見て呟いた私に、ハーヌがおかしそうに言った。
「言葉が通じなかったら不便だろうが」
「そりゃそうだけど。世界を渡った時って、必ずあちらの言葉がわかるの?」
「ああ。そういう風にできている。文字については気にしたことがなかったが」
「ハーヌはこの世界の文字は読める?」
「ああ、もちろん」
ということは、竜はあくまでもこの世界のものなのだろう。多少行き来ができるとしても、所属はあくまでもここということだ。
「文字もわかったらいいのにね」
「欲張っても仕方あるまい」
「うん、そうだけど」
結局そういうものだと受け入れるしかないらしい。
「そういえば、文字は別ですが、数字はキーネさまも読めるはずですよ」
ユーノが思い出したように言った。
「数字? どうして?」
「私たちの古来の書き方ももちろんありますが、計算に適した数字をもたらしたのはスズーキだそうですから」
言ってユーノは足元の砂に棒きれで「123」と数字を書いた。
「あ、ほんとだ」
漢数字と数字みたいなものだろうか。確かに数字の方が計算が楽だものね。きっと電卓なんてないはずだから、みんな便利なのが分かってスズーキの文字を受け入れたに違いない。
――偉業なのは確かなんだけど、ね。
ふと見るとハーヌが私を見ていた。気にするなとでも言いたげな視線。
私は黙って小さく微笑んで、改めて自分に言い聞かせた。
――いちいち稀人の偉業に落ち込むのはやめよう。
片づけを終えてリュックを背負ったところで、ユーノが黒い物を差し出した。
「予備のマントです。まだ上空は寒いでしょうからお使いください」
「あ、ありがとう」
確かに昨日の感じだと、このまま空を飛ぶのは寒そうだ。私はありがたくマントを受け取ってリュックの上から羽織った。
――確かに暖かくて、風避けにもなりそうなんだけど。黒いスーツに黒いマントって怪し過ぎる。鏡がないから見えないけど、どう考えても子供番組の悪役だか怪盗だかのコスプレとしか思えない。いっそシルクハットでも被ったらどうだろうって雰囲気。
「これ、おかしくない?」
「いえ、ますます稀人さまらしいと思います」
ユーノはからかっているわけではなさそうだ。とにかく黒が稀人のイメージカラーってことね。
見た目に抵抗はあるものの、暖かさには換えられない。私はそのままマントを来てハーヌの前に進んだ。
「今日もよろしくね」
「ああ。まかせとけ。必ず帰してやるから」
ハーヌの言うことはもっともなんだけど、なんだか帰る為にだけ出発すると思うのは少し寂しい。ハーヌもユーノも一日ですっかり仲良くなったのに。
それでも私は素直に頷いた。
「うん、ありがとう」
今日も昨日と同じように私が前に乗って、ユーノが後ろになる。行く先はもう伝えてあるらしい。
しっかりマントの前を合わせてから、ユーノと頷きあって、ハーヌに声をかける。
「準備、できたよ」
「よし、行くぞ」
ハーヌは力強く空に飛び上がった。