入江・5
話ながらスープも飲み終えるとお腹は満たされたものの少々口寂しくなって、私は木箱に置かれたままになっていたカップに手を伸ばした。使いこまれた金属のカップの中には暗い中でも赤黒く見える液体。赤ワインらしい。
慎重に匂いを嗅いで、少しだけ口に含む。お酒の味はよくわからないけれど、癖がなくて飲みやすいと感じた。
「酒、飲めるのか?」
ハーヌが心配そうに訊く。
「うん。あんまり強くないけど、少しなら」
「無理しなくていいんだぞ」
ハーヌは保護者気質なのかもしれない。
「無理じゃないよ。考えてみたらこちらの世界のお酒を飲む機会なんてもうないかもしれないんだから、味わっておこうと思って」
「ああ、それはそうだな」
ハーヌが納得したところで、もう一口。
「あちらのものとは違いますか?」
ユーノに尋ねられたけれど、残念ながらその質問にきちんと答えるための知識が私には欠けている。
「ごめん、私、あちらではあんなりお酒に馴染んでなかったから、比べられないの。でも、さっぱりしてて飲みやすいワインだと思う。これって葡萄から作ったお酒だよね?」
「そう、葡萄の酒です。夜に行動する予定だったので、酒としては弱めの物ですが、口当たりがいいので、慣れていらっしゃらないのなら飲みすぎないように気をつけてください」
保護者気質はもう一人いたらしい。
「うん、ありがとう。そこまで考えて持ってくるお酒の種類も決めるんだね」
ユーノたちは夜に渡り鴉の島に行く予定だったと言っていたっけ。
「ええ。冬の行軍ですと、身体を温めるためにもっと強い酒を少しずつ飲むようにするんですよ」
「行軍って、他所の国と戦争したりするの?」
ユーノの何気ない言葉にちょっと引っかかって訊いてみる。
「いえ、我が国は立地に恵まれているので対外戦争はほとんどしたことがありません。軍の役目は主に国内の犯罪の取り締まりです。以前は王都から離れた場所の平定をしていた時期もありましたが、国内が統一されて以降、行軍は示威の面が強いですね」
よかった、平和なんだ。たとえ平和ボケと言われても、戦争は無いほうがいい。
「立地って、海に囲まれていて他国と接していないとか?」
イメージがわかなかったので、とりあえず日本地図を思い浮かべてみた。
「正確に言えば、アンティデュールはハルドニア大陸の一部です。ただ、南と東は海に面していて、西は大河サザールが隣国との間に流れているので、国境線を巡って争うことがほとんどないのです。その意味では海に囲まれているのに近いかもしれません。唯一、北側が大国マグナルンドと接していますが、こちらも巨大な山脈に隔てられていて、細々とした交易路はいくつもあるものの、国境紛争にまで発展することはまずありません」
「マグナルンドって、王女さまがユーノと結婚したがっている国だったよね?」
うろ覚えの記憶で尋ねると、ユーノはよくできました、というように頷いた。
「はい、そうです。アンティデュールとの繋がりを強くして街道を整備し、軍隊の行き来が容易にできるようにした上で、支配下に入れるつもりでしょう」
「アンティデュールが海に面しているなら、隣の国も海沿いじゃないの? わざわざ山を越える道なんか作らなくても海から来ればいいのに」
――東が海で、北がマグナルンドなら、マグナルンドの東側も海だよね。って、単純に考えたら駄目かな。
「はい、そうなんですが、あちらの海岸は地形が入り組んでいて大きな港が作りにくい上に、潮の流れがきついところが多くて航海には不利なんです」
あやふやな感じで尋ねたけれど、それはそれで間違いではなかったらしい。
「近年西の大国タスネグナが貿易で発展してきたこともあって、マグナルンドとしては海路の充実した我が国の港が魅力的に思えるのだと思います」
「なるほどねぇ。ユーノの国は貿易も盛んなんだ」
私の感想にユーノは僅かに胸を張った。本人が王子さまで、まさに自分の国のことだもの、誇らしいのだろう。
「はい。アンティデュールは初代の国王と稀人スズーキの意志もあり、建国の時から領土の拡大よりも国民の生活の向上を目指した国造りをしてきました。結果的に最近は隣国であるマグナルンドよりも、海路で交易のあるタスネグナとの結びつきが強まっていることも、マグナルンドの焦りを誘っているのだと思います」
こんな国家間の問題を軽々しく話していいのかと心配になってきたけれど、この程度の話、こちらでは常識なのだろうか。それとも「稀人」にまだ期待しているのかな――。
「それだけいろんな国と交流があるのに、こちらの人はみんなユーノみたいな金髪なの? 黒髪の人の国ってないのかな?」
「金髪とは限りませんが、茶色か、せいぜい焦げ茶までですね。キーネさまのように真っ黒な髪の方は、私は見たことがありませんし、そういった人の国があると聞いたこともありません」
「そっかぁ」
次の台詞を言おうかどうしようか、ちょっと迷ったけれど、結局私は言うことにした。期待されたままなのは落ち着かないもの。
「あの、さ」
言葉を探すのを誤魔化すようにもう一口ワインを飲んでから、唇を舐めて、それから改めて告げる。
「私の髪、本当は黒じゃないよ」
「え?」
怪訝そうにユーノが首を傾げた。
「ちょっと都合で今だけ黒く染めてるの。暗めの茶色が本来の色。多分こちらでは珍しくない色だと思う」
私のお祖母ちゃん――お母さんのお母さんはヨーロッパ生まれの人だった。若い頃にお祖母ちゃんのお父さん――私のひいお祖父ちゃんの仕事の関係で来日した際にお祖父ちゃんに出会って、そのまま日本に残ることにしたという。そう、私はクォーターだ。
もちろん遺伝子的には黒髪のほうが優性だし、四分の三は黄色人種なのだけれど、それでも私の髪は黒とは言い難い。お父さんの家系にも茶色っぽい髪の人が多いことが関係しているのかもしれない。
「今までの稀人はたまたま黒髪だったということですか?」
ユーノが不思議そうに訊く。
「ううん。名前を聞く限り今までの稀人さんたちはみんな日本人だろうし、日本人なら黒髪のほうが普通だから、偶然ってわけじゃない。私があちらでは異端だったってこと」
――そう、異端。自分で言葉にしていて改めて思う。考え方は個人主義のくせに日本の文化や風習が大好きだった「変な外人」のお祖母ちゃんに育てられた私は、日本では常に異端者だった。
「あちらの世界には茶色い髪の者もいた気がするが」
今度はハーヌが首を傾げた。
「ああ、あれはみんな染めているの。お洒落の一環ね」
「そうなのか」
「うん。だから、私に稀人の奇跡を期待しても無理だからね」
「私は別に髪の色が奇跡を起こすと思っているわけでは……」
ユーノが困ったように言う。うん、ユーノはそこまで莫迦じゃないと思う。でも、私がずっとこちらに居たとしてもみんなに認められる稀人にすらなれないのは、今のうちに知っておいて欲しい。
「うん、わかってる。今までの稀人さんたちだって髪の色だけで評価されたはずじゃないってことくらい、私にもわかるから」
こくりと頷いてカップを見降ろしたら、なんだか酷く凹んだ気分になった。
こちらの世界で何か特別なことができるわけじゃないのは、最初からわかってた。でも、異世界に来て改めて現実の世界に馴染めない自分に気づくなんて、なんて莫迦なんだろう。
「どうした。酔ったのか?」
保護者その一のハーヌが優しく訊く。
「そうかもしれない」
そう、酔ったことにしてしまおう。きっと夜の焚火がいけないんだ。揺れる炎に照らされていると、必要もないのに感傷的な気分になる。
「きっとお疲れなんでしょう。天幕でお休みください。ここは私が片づけますから」
保護者その二のユーノが穏やかに言う。
「うん、ごめん。先に寝かせてもらう」
ゆっくりと立ち上がる。日が暮れてから食事をしただけだからまだ時間は早いはずなのに、本当に疲れているのか身体が重い。
天幕まで灯りを持ってついて来てくれたユーノは、てきぱきと一人分の寝床を用意し、その他こまごました気配りを見せると、そのまま出て行こうとした。
「あ、ユーノの分も用意しておかないと」
きっとユーノは私が寝てしまったら隣でばたばたするのは悪いと考えるだろうから、きちんとした準備ができないだろう。だったら今やってしまったほうがいい。
「私は外で寝ます」
「え。でも」
「焚火もありますし、若い女性と一緒に一夜を過ごす訳にはいきません」
私だって一緒に寝たいわけじゃないけど、王子さまを天幕から追い出すのは気が引ける。
「大丈夫です。この季節に天幕があるほうが珍しいんです。今回は鴉の視線から隠れる一環で用意しましたが、本来はなくてもいいものですから」
「そうなんだ」
それ以上押し問答する気力もなく、私はユーノの厚意を受け取ることにした。
「ありがとう。ごめんね」
「いいえ。ゆっくりお休みください」
「うん。おやすみなさい。ハーヌも」
「ああ、おやすみ。よく寝ろよ」
焚火の向こうからこちらを見ていた竜が、ゆっくりと手を振るのが見えた。