入江・4
「そうですね。スズーキに関しては、当時我が国はとても貧しく、紙も非常に貴重だったために細かな情報が残っていないのでわかりません。一方トーゴは弟子も多く記録も豊富です。トーゴは元の世界に妻子がいたのに突然こちらに飛ばされてしまったため、ずっとあちらのことを気に掛けていたそうです。つまりは帰りたくても帰れなかったのですね。アイコについても帰る方法を模索する中で後に夫君となる男性と親しくなったそうですから、最初は帰りたいのに帰れないという状態だったはずです。結婚後はすっかりこちらに根を降ろした暮らしぶりだったそうですが、それでも時折あちらを懐かしんでいたと聞いています」
ユーノは考えながら答えると、ハーヌが予想通りといった様子で説明した。
「やっぱりな。入口が宝玉なのは分かったとしても、人間には道を開くことはできないはずだ。それこそ何かのはずみで落ちるのでなければ、通ることはできないものだ」
帰りたくても帰れなかった人たち。さっきまで偉いとしか思わなかった稀人たちが、急に同情すべき人たちに思えてきた。
「キーネは入り口さえ見つかれば俺が通す。偉人なんかにならなくていい」
――あ、元気づけてくれているんだ。
ハーヌの言葉にほっと肩の力が抜けた。
「とりあえず宝玉さえ取り返せば問題は解決だ。キーネはあちらに帰れるし、ユーノは儀式が行える。そうだろう?」
「はい、そうです。――それ以上をキーネさまに求めるのは筋違いだと仰るのですね」
ユーノが頷き、確認するように尋ねた。
「ああ、そうだ。そこまでなら俺も協力しよう」
「わかりました。よろしくお願いします」
ユーノがハーヌに頭を下げるのを見ていて、少し申し訳なくなった。私が期待に応えられるかは別として、ユーノにとっては宝玉の在りかが分かってもそれで終わりになるほど簡単な事態ではないだろう。何しろ相手はユーノに渡す気がないから勝手に持ち去ったのだろうし、王子さまを置き去りにするっていうのはどう考えても重罪だろう。それでも踏み切ったのだから、相手は相当の覚悟をしているはずだ。
「あの、行く先がわかっているってことは、宝玉を持って行った犯人もわかっているっていうこと?」
「ええ。我が国の宰相です」
ユーノははっきりと言い切った。
「宰相?」
それって、王様の次に偉い人のことだよね?
「そうです。国宝が失われたことは公にできません。私の配下の者を動かすと目立つので、今回は私が宰相領であるドゥエラを訪れ、領内を宰相が案内するという体裁にしました。ですから船も兵もすべて宰相の物、彼らを動かせるのは同行していた宰相だけです」
そうか。たとえ宝玉を見つけたのが下っ端の人だったとしても、最終的に宰相が指示しないと船は出せないもんね。
「置き手紙も宰相の署名で、本人の筆跡でした。間違いありません」
そういえば手紙もあったんだっけ。すっかり忘れてた。
「なんで宰相が持ち逃げするんだ? 一緒に探しに来たなら、お前に差し出せば済むだけの話だし、逆に国王を倒して自分が玉座に座ろうって魂胆なら、明日迎えに来るなんてまだるっこしいことを言わないでさっさとお前を殺してしまうはずだろう」
ハーヌが言うことは物騒だけど、確かにそうだと思う。それだけ大切なものを持ち逃げしておいて、迎えに来るってのは中途半端じゃないだろうか。
「宰相にとっては私が王位を継がなければそれでいいのでしょう。私が宝玉を手にすることができなかった事実を公にして、弟を王太子に据えようとしているのだと思います」
王子が複数いて、長男派と次男派で争っているっていうことかな。物語の中だとよくある話だし。
そう思って尋ねたけれど、ユーノは首を横に降った。
「弟と私は母も同じですし、何よりも弟はまだ5歳です。妹は三人おりますが男子は長年私だけでしたから、今更無理に弟を担ぎ出そうという者はほとんどおりません。勿論絶対にないわけではありませんし、多分宰相も私の代わりに弟に王位継承権を与えるつもりでしょうが、それが本当の目的ではないと思います。そもそも宰相は我が国内で盤石の地位を築いておりますから、王位に就くのが私であっても弟であっても、彼自身には影響はないはずです」
淡々とユーノは語る。それほど宰相に怒りを感じている風でもないのが不思議だ。裏切られたと腹が立ったりしないのだろうか。
「だったらどうして」
「私には婚約者がおりません」
いきなり話が飛んだ。
「?」
「北の大国マグナルンドから、私の成人と共にあちらの王女と婚約する話が持ち込まれているのです。マグナルンドはアンティデュールよりもずっと大きな国ですから、いずれ吸収しようという魂胆に間違いありません。わが国はこれまでは他国との婚姻は極力控えて独自の国造りをしてきました。何分小さな国ですから一度マグナルンドの血を入れてしまえばいずれ何か理由をつけて継承権を要求され、やがて吸収されてしまうと確信しているからこその選択です。また、マグナルンドと婚姻関係を結ぶことでもう一つの大国タスネグナから敵対視されるのも避けたいところです」
「なるほど、アンティデュールとしては二大国のどっちにもつきたくないわけだ」
ユーノが言葉を切ったところでハーヌが確認するように尋ねた。
「はい、そうです。これまで二国と等距離外交を貫いてきただけに、宰相もこの婚姻は全力で回避しようと手を尽くしてきました。逆にいえば、それでも回避できなかったほど、マグナルンドは何があってもこの婚姻を成立させたいと望んでいるということです」
継承権だの外交だのって、お話の中のような言葉だ。いや、それ以上に目の前に焚火、その向こうに竜、隣には王子さまってのが既にお話の中って気分なのだけれど。つい今しがた食べ終わったばかりのテリヤキサンドの味をちょっと出汁風味のスープで打ち消したら、ほら、もう完全にお話の世界。
私の感慨を余所に、ユーノは説明を続ける。
「アンティデュールは小さいとはいえ独特な高い文化を持っているので、国際情勢的には重要な位置にあります。ここで我が国がマグナルンドと結ぶと、周辺諸国がこぞってマグナルンド側について二国間の均衡が破れ世界を二分するような大きな戦争に繋がる可能性があることも、この婚姻を阻止したい理由の一つになっています」
「大国の王女さまと結婚するとマズいってのはわかったけど、それがどうして宝玉泥棒に繋がるの?」
ユーノの説明は分かり易いのだけれど、どうも全体像がわからない。
「私が王位を継がなければ、私と結婚してもマグナルンドに利益がありませんから」
「だったら弟さんと結婚するとか言い出さない? 歳が離れているといっても、他にも王女はいるからとか言って」
もうすっかり私の中はお話しモードだ。政略結婚なんてものに現実感はまるでない。
「私が幼い時からこの婚約話はあったのですが、父が私が成人するまではと言ってはっきりと答えないままにしていたのです。ですから、弟に継承権が移れば弟が成人するまでは猶予ができます。時間稼ぎと言われればそのとおりですが、それまでにはまた各国の情勢も変わるでしょう」
「なるほどね」
だからこそ、宰相はユーノを殺す必要がないし、逆に殺してしまえば大問題だけれど、明日の朝迎えに来るのであればまだ言い訳の余地はあるってことなんだろう、きっと。
「別の人と結婚しちゃうってのは?」
お話モードのまま更に訊いてみると、ユーノが苦笑した。
「そういう相手がいればいいのですが。私の両親も恋愛結婚でしたし、我が国は比較的大らかで自由な気風なので、私が強硬に主張すればそれは可能なことです。だからこそ成人までは相手を決めないなどと言い張ることができたのですから」
「相手、いないの? 王子さまならすごーくモテそうなのに」
ユーノなら王子さまじゃなくてもモテるだろうけど、と心の中で付け足す。
「残念ながら」
ユーノは肩を竦めて自嘲気味に笑った。
「頼めば結婚してくれる女性はいるでしょうが、王太子の結婚相手は心身ともに重労働ですから。気軽に頼めるものではありません」
ここでその回答が出る辺り、ユーノは恋愛自体を諦めている気がする。王子さまの立場だと確かに恋愛が難しいのはわかるけど、その老成した態度はなんだか物足りないぞ。