入江・3
「キーネさまの世界には、竜はいないのですか?」
追加の薪をくべながらユーノが尋ねる。
「うん。伝説はあるけど会った人はいないし、私もハーヌに会うまでは架空の存在だと思ってた」
正直、今目の前にしていてさえ、これが現実だとはあまり信じられない。そんな私とは対照的に、ユーノはもっと普通にハーヌに接しているようだ。
私はユーノに同じ質問を返した。
「ユーノはハーヌよりも私に驚いていたけれど、こちらには竜はよくいるものなの?」
「よく、というわけではありません。私も竜に会うのは初めてですから。でも私が知らなくても、この世界には確かに常に竜が存在しているのだと思っています。――そうですよね?」
ユーノに問いかけられてハーヌが頷いた。
「ああ、そうだ。群れになっているわけじゃないから俺も全体でどのくらいいるのかは知らないが、いることはいるはずだ」
――群れにならないってことは、家族はいないんだろうか。
今日会ったばかりでこれを尋ねるのは不躾だろうかと逡巡する私に、ユーノは本筋の続きを語る。
「マレビトさまは、その呼び名のとおり、非常に稀な方で、我が国の歴史上で知られているのは三人だけです」
やっぱりマレビトは「稀人」らしい。歴史上三人というのは、確かに珍しい。
網からパンを取り上げ、サラダ菜っぽい葉っぱと焼けた肉を挟みながら、ユーノは言葉を続けた。
「一人目の稀人は、建国の稀人と呼ばれています。その名の通り、我が国を作った方です。四百年程前にどこからともなく現れ、こちらの世界で得た親友と共に現在の地にアンティデュールの国を築きました。建国の稀人スズーキは、荒地同然だったアンティデュールをその不思議な力で開拓し、実り豊かな住みやすい土地に変えたと言われています」
ユーノはスズーキと真ん中にアクセントを置いて呼んだけれど、きっとその人の名前は鈴木さんだったんだろう。どうやら日本から異世界に渡った人が稀人だと思っていいようだ。とはいえ、四百年も前の人にそんな不思議な力があったのだろうか。そもそも今だってそんなことが一人の力でできるとは思えないし。
「スズーキと共に国を開いた親友が現在の王家の祖、つまりは私の祖先です」
一旦話を打ち切り、ユーノは肉と野菜を挟んだパンを木の皿に乗せて私に差し出した。
「どうぞ。お口に合うといいのですが」
「ありがとう」
受け取った皿を木箱に置いてパンを持ち上げると、予想したよりずっしりと重みがあった。とはいえ、気になるのはこの匂いだ。まずは顔に近づけてゆっくり匂いを嗅いでから、私はパンからはみ出していた肉の端を小さく齧り取った。舌に広がる馴染んだ味。匂いから予想はしていたものの、それでもやっぱり信じられない。
「照焼き? 醤油があるの?」
もう一口食べてみたけれど、やっぱりこれは甘辛い醤油の味だ。こんな西洋風ファンタジーっぽい世界で初めて食べる食事が醤油味ってどういうことなんだろう。
「ああ、やっぱりキーネさまはご存知でしたか」
ユーノが納得したように頷いた。
「醤油は二人目の稀人、食の稀人と呼ばれるトーゴがもたらしたものです」
トーゴ――東郷さんだろうか、それとも名前のほうで東吾さんかな。
「今でこそ我が国では一般的な味付けですが、他国では名前こそ知られているもののほとんど生産されていないので、アンティデュールの名産の一つになっています」
醤油を知っていて、こちらにあることに驚く私は間違いなく稀人だとユーノは言いたいらしい。確かに私は日本から来たから、その意味では稀人ということなんだろう。
私は改めて手の中の照焼きサンドを口に運んだ。しっかりと歯応えのあるパンに挟まれた照焼き味のステーキ。違和感のない馴染み具合が、醤油味がこの国の文化に溶け込んでいることを物語っている。
「もしかして、味噌もある?」
思いついて尋ねてみると、自分の分の照焼きサンドを食べていたユーノが大きく頷いた。
「はい、あります。やはり味噌もご存知なんですね」
「うん。どっちも大豆を発酵させて作るものだから、片方あるならもう一つもあるかなって思って」
――大豆を発酵させて、と言葉で言うのは簡単だが、それを異世界で実現するのはどれだけ大変なことなんだろう。酵母菌は最初からあったのかな。
「トーゴはあちらの世界では大きな店を持つ料理人だったそうです。醤油や味噌といった食材や味付け、調理法を伝えるとともに、調理をする際の衛生管理の方法や健康を維持・増進する為に必要な栄養についての知識も広めました。トーゴの時代以降、我が国の国民の体格は飛躍的に向上し、平均寿命は格段に長くなりました」
ユーノの言葉の端々から、稀人に対する心からの尊敬の念が窺える。
確か二人はそれだけの業績を上げたんだから当然かも知れないけれど、同じものを私に期待されていると思うとひどく居心地が悪い。
「三人目の稀人はどんな人だったの?」
この様子だときっと三人目も偉人なんだろうと予想しつつ、一応訊いてみる。
「三人目は、慈愛の稀人、アイコです」
――アイコなら、愛子さんかな?
「女の人?」
確認するとユーノが頷いた。やっぱり同郷なんですねと言いたげな表情。
「はい、そうです。アイコは今から八十年ほど前に突然王宮に現れました。妙齢のとても美しい女性だったそうです。私は肖像画でしか見たことはありませんが、黒髪に黒い瞳の小柄な方で、その肌のきめ細かさは年齢を重ねても衰えることがなかったと言われています」
いきなり前の二人よりも説明がリアルになったのは、時代が近い所為だろう。八十年前なら、ユーノの身近にアイコさんに会ったことのある人がいるのかもしれない。
「当時独身だった王太子を始め、有力な貴族たちが揃ってアイコに求婚し、その心を射止めようと右往左往しましたが、結局アイコは貴族の中でも比較的身分の低い一人の男と結婚しました」
つまり、王子さまはフラれたのか。なんだかロマンチックな小説みたいだ。鈴木さんや東吾さんより下世話な気がするのは恋愛絡みだからだろうか。
「いろんな人に求婚されたから『慈愛の稀人』なの?」
それはそれで一つのお話にはなるけれど、ちょっと鈴木さんたちより格が落ちる気がする。いや、その方が私としては助かるんだけど。
「いいえ、確かにアイコは美貌の人でしたが、彼女の素晴らしさはその容姿だけではありません。彼女は王や貴族たちに進言して、学校や福祉施設を整えさせました。親のない子にも教育を受けさせ職業訓練を徹底した結果、我が国の生活水準は向上し、また貧困層が激減したことで治安が向上しました。現在我が国は他国に比べ治安のよい国として知られており、トーゴのもたらした食文化と共に観光収入に繋がっています」
うわぁ、社会改革か。王宮でちやほやされていただけじゃないのね。慈愛の稀人と呼ばれるだけのことはありそうだ。
「また、彼女の夫は後に名宰相と呼ばれるようになったのですが、二人の間には子どもが授からなかったので、アイコは孤児の中から養子を迎えました。彼は義父の後を継ぎ、その実力で自らも宰相となり、我が国の発展に多大な貢献をしました。アイコが育てた子どもたちは他にも大勢いて、皆それぞれに我が国の重要な地位を担いました」
ああ、もう、偉すぎて声も出ない。
はふぅと溜息をついてパンを齧ると、ハーヌがこちらを見て笑った気がした。
「何?」
「いや、期待されるのも大変だなと思っただけだ」
「あ、わかってくれる?」
「だが、キーネが期待に応える必要はないんじゃないのか? 察するにその稀人たちは帰りたくても帰れなかったんだろう?」
私への同意の代わりに、ハーヌはユーノに質問を投げた。