都会・1
「竜を待っているの」
――私の一言が、すべての始まりだった。――
その日は就職試験だった。もう何度目になるのかは数えたくもない。相変わらず手応えのない面接を終え、私は空調の利いたオフィスビルから午後の街に吐き出された。たちまち湿った空気が身体を取り囲む。その湿度に、来月には梅雨が来ることを思い出して憂鬱になった。このまま梅雨になっても、ひょっとしたら夏になっても、多分、いや、きっと就活は終わらないだろう、そんな嬉しくもない予想が脳裏を過る。
周囲には一様に黒いスーツに身を包んだ同年代の人が数名。いつものように特に会話もなくただ駅に向かって歩き、いつの間にか雑踏に紛れて互いを見失う。いずれまたどこかの面接会場で出会うこともあるのかもしれないが、いちいち覚えておく気にはならない。少子化だと言われても、今年大学を卒業する人間がいかに大勢いるかを実感する毎日だ。
曇り空の下のショーウィンドウに映る姿は、白いブラウスに黒いパンツスーツ、黒い靴と黒いバッグに真っ黒な髪。何度見てもどこか見慣れない自分。私は軽く眉をしかめて黒ぶちの眼鏡を外してバッグにしまった。度は入っていないので、外しても視界に変化はない。
気分を切り替えようと私は駅の反対側の出口に回った。この辺りは駅を境にオフィス街と住宅街に別れている。オフィス街側に行ったのは今日が初めてだったが、住宅街側には何度も来たことがあった。
通りに面したチェーンのカフェに足を踏み入れたものの、残念ながら屋内の席がいっぱいだったので、カップを持って通りに面した屋外の席に出た。雨が止んだばかりらしく湿っぽい風が吹いている所為か、外の席は人影がまばらだ。軒から張り出したルーフの下の蔭濡れていない椅子に座ると、自然と通りに顔を向けることになる。
たちまち水滴を纏わりつかせたカップから冷たいカフェラテを一口飲んで、喉が渇いていたことに改めて気付いた。面接にはとっくに慣れたつもりだったけれど、それでも緊張していたらしい。
息を吐いて見上げた空では、黒い雲が風に流されていく。上空は風が強いのだろう。刻々と形を変えていく雲は、空を駆けていく竜のようにも見える。
――あの背中に乗って飛んだら気持ちいいだろうな。
そんな思いが過る。
――いいなぁ、自由で。
続いて浮かんだ考えに私は首を振った。私だって自由だ。何の束縛もない。一人暮らしで、養わなければいけない人はいないし、将来を約束した相手も居ない。田舎の母は兄と同居しているから、私が帰る必要はない。単に私は私の為に、来年からの仕事を見つけなければならない。ただそれだけのことが、これほど大変だとは。私は溜息を飲み込んでストローに口をつけた。
このまま天気が回復すれば、後から家の近くの河原にジョギングに行けそうだ。少し身体を動かしたらすっきりするだろうか。
「あ、雪音ちゃん?」
下を向いていた視線の先に止まったのは新品の白いスニーカーだった。その上は細身な七分丈のジーンズに、シャープなラインのシャツ。柔らかく巻いた茶色い髪が風に揺れる。
「佳織?」
よく知っている友人の名前の語尾を思わず上げてしまったのは、佳織の意外な服装に驚いたから。私の知っている佳織はいつも可愛らしい雰囲気の服を着ていたし、何よりも艶々した黒い真直ぐな髪をしていたから。黒目がちな目をした佳織にあの髪はとても似合っていて、まるで日本人形のようだと思っていたのに。
「雪音ちゃん、元気?」
可愛らしく小首を傾げて佳織が訊く。こういう仕草は以前のままだ。
「うん、まあ元気。就活中だから凹んでるけど」
「そっか、大変そうだね」
「うん。今日は駅のあっち側で面接だった」
「お疲れ様」
ここで結果だの手応えだのを聞かないのは佳織の思い遣りだろう。
「髪、染めたんだね」
佳織は特に急いでいる様子もないから、目に着いたことを口にする。
「うん。雪音ちゃんと反対だね」
そう、私の髪は就活のために黒く染めた。それは今目の前にいる佳織が早々と内内定をもらえたことと無関係ではないのだが、いまだに私はこの色に慣れない。
「私は就活だから仕方ないけど。佳織はせっかく綺麗な黒だったのに、勿体ないよ」
「似合わない?」
「そんなことないけどさ」
困った顔をして黙っている佳織に、私は仕方なく尋ねた。本来私が気にすることではないのだけれど。
「明良とはうまくいってる?」
「うん。これからレポートの打ち合わせで明良の家に行くところ」
佳織はこくりと頷いた。
明良は私と佳織の同じ大学のゼミ仲間で、この先の住宅街に住んでいる。私がこの駅に何度も来たことがあるのは、私が明良と付き合っていたからだ。その明良と佳織は現在つきあっている。つまり佳織は私のモトカレのイマカノだ。
といっても、私が明良と知り合う前から佳織は私の数少ない友人の一人だったし、明良と私が別れたのはほとんど私の我儘だったから、その後で佳織が明良とつきあうことには何の問題もない。ないはずなのに、佳織は私に気を使って、こうして明良の名前を言う時に少し困った顔をする。気にしなくていいのに。
「そっか。頑張ってね。私はレポート書いてる暇ないから、ゼミの単位は落とすかも」
私があっさりと言っても、佳織は何か言いたげな顔のまま黙っている。その控えめな意思表示の様子が可愛いのは確かだが、その可愛さはむしろ明良に見せるべきだと思う。
「明良に聞かれたら、私は元気でそれなりにやってるからって伝えてくれる? 多分もう私のことなんか興味ないとは思うけど」
「そんなこと……」
小さな声で抗議するように佳織が呟く。まったく明良も何をやっているんだか。
「ね、待ち合わせじゃないの?」
「う、うん」
「もう行ったほうがいいんじゃない?」
「うん……」
しばらくためらっていた佳織は意を決したように顔を上げた。
「雪音ちゃんは待ち合わせ?」
「う……ん、まぁね」
否定しなかったのは、私から明良を取ったと佳織が思い込んでいるから。確かに私は佳織が明良のことが好きなことに気づいていたけれど、別れたのはそれが原因ではない。むしろ佳織はいい子だし、明良はいい奴だから、二人がつきあってくれればいいと思っていた。
だから現状は歓迎しているのに、佳織だけが納得していない。
「彼氏?」
曖昧に答えた私に佳織は食い下がる。元々待ち合わせなんかしていないし、明良と別れて以来彼氏と呼べそうな存在はいない。
「まぁ、そんなとこ。まだ知り合ったばっかりだから、彼氏とは言い切れないけど」
嘘を吐くのは好きじゃないけど、これは必要な嘘だ。
「何て名前の人?」
「いいじゃない、まだちゃんと彼氏じゃないんだし」
正直名前なんて考えていない。
「でも」
疑っている顔つきの佳織から視線を逸らして空を見上げる。さっきの竜の形の雲はだいぶん遠くに進んでいたが、まだ形は崩れていない。
「リュウ、そう、私は竜を待っているの」
出まかせに思いついた言葉を名前風に発音した私の言葉は、不思議な音色で遠くまで響いた気がした。
「リュウさんかぁ。どんな人?」
次の質問に内心で悲鳴を上げる。そんなこと、急に思いつくわけがない。
「えっと、その……」
「私、一緒に待ってていいかな」
「えっと、まだ時間掛かるから。面接が予想より早く終わっちゃって……」
私はしどろもどろに答えた。当たり前だがこのままいくら待っても誰も来るわけがない。
「そっかぁ」
「それより、明良、待ってるんじゃない? あいつ結構時間には煩いよ」
おたおたしている私を見て、佳織がくすりと笑った。
「照れてる雪音ちゃん、可愛い」
完全に誤解だ。私は照れてるんじゃなくて焦ってるだけだし、そもそも何をしても可愛いと言われるタイプではない。可愛いのは佳織だ。
「今日はもう行くね。リュウさんに会わせてもらうの、今度にしとく」
折角の誤解を解くわけにもいかずに余計に焦る私の前で佳織は笑顔で言った。
「う、うん。明良によろしく」
小さく手を振って佳織を見送る。華奢な後姿が雑踏にまぎれて見えなくなったところで、私は大きく息を吐いた。どっと疲れた気がする。
椅子の席に身体を預けて、すっかり水っぽくなったカフェラテを飲み干した時、すぐ近くで声がした。
「待たせたな。俺に何の用だ?」