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6年間、替身として生かされてきた。彼女が戻ってきたら、僕は部屋に閉じ込められた

作者: 熾星
掲載日:2026/08/09


 十八歳の年、桜庭初音は事故で両親を亡くし、父の旧友である神崎義人のもとで暮らすことになった。


 義人は初音の誕生日を忘れず、雷雨の夜にはそばにいてくれた。毎年贈られるのは、青いワンピースと同じ色のリボン。初音は、その優しさが自分だけに向けられたものだと信じていた。


 だが、義人の幼なじみである水城静香が再び現れたことで、初音は知ってしまう。


 自分と静香が、驚くほどよく似ていることを。


 初音は過去を断ち切り、義人のもとを去った。


 一年後、ファッションデザイナーとして白桜市へ戻った彼女は、もう誰の影にもなるつもりはなかった。



1



 私の名前は桜庭初音。青凪市で生まれ育った。


 父は服地メーカーを経営し、母はブランド企画を担当していた。私は一人娘で、十八歳になるまで、自分が一日のうちにすべての支えを失うなど考えたこともなかった。


 あの日の午後、担任が教室から私を呼び出した。


「初音。ご両親の車が高速道路で事故に遭ったそうだ。病院から連絡があった。すぐ一緒に行こう」


 青凪総合病院に着いたときには、救命処置はすでに終わっていた。


 医師はマスクを外し、懸命に処置を行ったものの、二人とも助けられなかったと告げた。廊下に立ち尽くした私の頭には、今朝、母が制服の襟を直してくれた光景だけが残っていた。


 葬儀は仏式で執り行われた。焼香に訪れた人は多かったが、式が終わると親戚も会社の株主たちも早々に帰っていった。私の今後について、責任を引き受けようとする人は誰もいなかった。


 私はすでに十八歳で、自分のことは自分で決められる。それでも、両親が残した株式や不動産、生命保険の手続きは、遺言執行者である信託銀行と顧問弁護士が進める必要があった。


 黒い喪服を着て祭壇のそばに立っていると、目の前で革靴が止まった。


 顔を上げると、三十歳ほどの男がいた。涼しげな目元に、すらりとした長身。私の顔を見た瞬間、彼はわずかに息をのんだが、すぐに平静を取り戻した。


「君が初音?」


「はい。失礼ですが……」


「神崎義人だ。君のお父さんには、昔からずいぶん世話になった」


 葬儀のあと、遺産を担当する弁護士から説明を受けた。


 両親は遺言書の付言事項に、もし二人が同時に亡くなるようなことがあれば、私が大学を卒業するまで、義人に必要な支援をしてほしいと記していたらしい。


 ただし、彼に私の財産を処分する権限はない。住まいや学業について、相談に乗るだけだという。


「青凪市に残ってもいいし、白桜市へ転校してもいい。決めるのは君だ」


 義人さんは、いくつかの学校資料を私の前に差し出した。


「白桜市に、今の学校と授業の進み方が近い私立高校がある。来るなら、うちの離れを使えばいい。住み込みの家政婦もいるから、俺と二人きりになることはない」


「どうして、そこまでしてくれるんですか」


「君のお父さんと約束したからだ」


 青凪市の家には、両親の気配があまりにも色濃く残っていた。


 父のコートは玄関に掛かったままで、母が使っていたカップも台所の棚に置かれていた。三日間、一人で暮らしてみた。毎晩リビングの明かりをつけたまま眠ったが、両親の寝室の扉だけは、どうしても開けられなかった。


 私は弁護士に付き添ってもらい、転校の手続きを済ませた。そして義人さんと一緒に、白桜市へ向かった。


 神崎家は、閑静な低層住宅街にあった。


 灰色の石塀の向こうには、濃い色の軒と大きなガラス窓を持つ、現代的な和風住宅が建っている。砂利を敷いた庭まで整然としていた。青凪市の自宅ほど華美ではないのに、妙に静かで、人の気配が薄かった。


 玄関では、五十代半ばほどの女性が迎えてくれた。


「初音さんね。佐藤美代です。この家のことを任されています。美代と呼んでくださいね」


 美代さんは、私を庭の脇にある二階建ての離れへ案内した。私の部屋は二階にあり、母屋の三階には義人さんの寝室と書斎があるという。


「書斎には会社の大切な書類があります。許可がないときは入らないでくださいね」


「分かりました」


 その夜、見慣れないベッドでなかなか眠れずにいると、扉を軽く叩く音がした。


 義人さんは部屋の中へは入らず、サイドテーブルに白湯の入ったカップを置いた。


「美代さんから、夕食をほとんど食べなかったと聞いた」


「食欲がなくて……」


「今は休めばいい。ここでは、無理に立ち直れと言う者はいない」


 扉が閉まったあと、私は白湯を見つめながら、ようやく声を上げて泣いた。



2



 白桜市へ来てから、義人さんは私を大切にしてくれた。


 私の財産には一切手をつけず、学校や信託銀行に関する書類も、必ず先に私へ確認させた。


 転校して間もない頃、同じクラスの生徒から「親もいないくせに、金持ちの男に養ってもらっている」と笑われたことがある。


 義人さんは学校に登録していた緊急連絡先として来校し、担任と学年主任に、校内のいじめ対策組織を通して対応するよう求めた。その生徒は私に謝罪し、学校はその後も継続して見守ることを約束した。


 学校を出たところで、私は小さくこぼした。


「わざわざ来なくてもよかったのに」


「傷つけられて黙っていることを、物分かりがいいとは言わない」


 義人さんは車のドアを開けた。


「初音には、やめてほしいと言う権利がある」


 それから私は、少しずつ彼を頼るようになった。


 義人さんは私の誕生日を覚えていて、毎年、青いワンピースと同じ色のリボンを贈ってくれた。何か意味があるのかと尋ねたこともあったが、青が似合うからだとしか答えなかった。


 年越しには、できるだけ家に残って一緒に蕎麦を食べてくれた。夏祭りの河川敷が混雑すると、はぐれないように私の手首をつかみ、人混みを抜けるまで離さなかった。


 雷の夜に両親の事故を夢に見たときは、リビングで朝まで一緒に過ごしてくれたこともある。


 私は白桜服飾大学の服飾造形学科へ進み、ファッションデザインや立体裁断、繊維材料学、ブランド企画を学んだ。


 卒業後は神崎家の離れを出て、服部真理子先生のアトリエでアシスタントデザイナーとして働き始めた。


 二十二歳の年、私は義人さんに想いを告げた。


「好きです」


 彼は長い間、何も言わなかった。


「それは依存を恋愛と勘違いしているんじゃないのか」


「もう神崎家を出ています。仕事も、自分の生活もあります。何を言っているのか、自分で分かっています」


「俺は君より十一歳上だ」


「引き算くらいできます」


 義人さんは小さく笑った。


「なら、まずは恋人になる前に、二人で出かけるところから始めよう。嫌になったら、いつでもやめていい」


 付き合い始めてからも、彼の優しさは変わらなかった。


 接待のない週末には私のマンションへ食事に来た。仕事で夜更かししていると、温かい飲み物を机に置き、デザイン画を描く手を止めさせることはなかった。地方へ出張したときも、到着すると必ず連絡をくれた。


 私たちの関係は神崎ホールディングスの社内には公表していなかった。お互いの仕事に余計な影響を与えないためだと、私は思っていた。


 彼は感情を表に出すのが苦手なだけで、愛情を言葉にすることに慣れていないのだと信じていた。


 それが崩れたのは、二年後。私が二十四歳になった誕生日だった。


 その日は早めに仕事を終え、マンションでケーキと夕食を用意した。


 毎年、義人は必ず時間を作ってくれた。けれど、夜の九時を過ぎても帰ってこない。電話をかけると、向こうからざわめきが聞こえた。


「義人、まだ会社?」


「初音、急な用事が入った。先に休んでいてくれ。あとで連絡する」


「でも、今日は――」


 言い終える前に、通話は切れた。


 日付が変わる頃、外は激しい雨になった。


 事故にでも遭ったのではないかと不安になり、まず神崎ホールディングスの本社へ向かった。ビルには警備員しか残っておらず、社長室の明かりも消えていた。


 次に、義人が遅くなったときに使う都心のマンションへ向かった。


 タクシーが入口に着いたのとほぼ同時に、黒い車が滑り込んできた。


 義人が降り、反対側のドアを開けて、青いワンピース姿の女性を支えた。長い髪は青いリボンでまとめられ、顔色は青白い。彼女は力なく義人の肩にもたれていた。


 義人は傘を彼女の側へ傾け、自分の肩を雨に濡らしていた。雨越しに、彼が彼女の様子を気遣う姿が見えた。


 その慎重な優しさは、ずっと私だけのものだと思っていた。


 二人がマンションへ入ったあとも、私はその場から動けなかった。


 横顔が、私にあまりにも似ていた。右目の横にある小さなほくろまで、ほとんど同じ位置にあった。


 神崎家へ戻った私は、以前の来訪者用暗証番号で母屋に入り、三階の書斎へ向かった。


 本棚の上に置かれていた木箱には、あの女性の写真が何枚も入っていた。若い頃の彼女も青いワンピースを好み、髪にはリボンを結んでいる。


 一番下には、出されることのなかった古い手紙があった。そこに書かれていた名前は――水城静香。


 義人が初めて私を見たとき、なぜ言葉を失ったのか。


 毎年贈られた青いワンピースが、どこから来たものなのか。


 すべてが、ようやくつながった。


 私はずっと、別の女性の影の中で生きていたのだ。



3



 翌日、義人が神崎家へ戻ってきたとき、私は庭先で青いワンピースを処分していた。


 一着ずつ鋏を入れ、リボンも切り離し、中身の見えないごみ袋へ詰めていく。


「初音、何をしている」


「もう要らないものを捨てているの」


 義人は私の前まで来ると、声を低くした。


「気に入らないなら買い替えればいい。そんなことをする必要はないだろう」


「水城静香って、誰?」


 彼の表情が凍りついた。


「書斎に入ったのか」


「入った」


「あそこには会社の機密書類がある。勝手に入るなと言ったはずだ」


「あなたが気にしているのは、それ?」


 私はまっすぐ彼を見た。


「昨夜、どこにいたの」


「静香が夫と揉めて、バーで酔いつぶれていた。彼女の父親に頼まれて、安全な場所まで送った」


「それで、自分のマンションに連れていったのね」


「夫に連絡した。彼が着いたあと、俺はすぐに出た」


 彼があの部屋に何分いたのかなど、もう確かめる気にもなれなかった。


「初めて私を見たとき、静香さんに似ていたから、面倒を見ようと思ったの?」


 義人はすぐには答えなかった。


「私と付き合ったのも、この顔だったから?」


「初音、そんな単純な話じゃない」


「答えて。それだけでいい」


 彼が手を伸ばしかけたので、私は一歩下がった。


「初めて君を見たとき、確かに静香を思い出した」


 胸を鈍器で殴られたようだった。


 私は離れの鍵を外し、脇の石台に置いた。


「別れましょう」


「認めない」


「付き合うには二人の同意が必要でも、別れるのにあなたの許可はいらない」


 離れへ戻ろうとすると、彼が追いかけてきて入口を塞いだ。


「今の君は冷静じゃない。落ち着いてから話そう」


「神崎さん、どいてください」


 その呼び方に、彼の顔色が変わった。


 私は横をすり抜け、荷物をまとめ始めた。義人は扉の外に立っていたが、突然、外側から鍵をかけた。


 かちりと音がして、私は慌ててドアノブを回した。


「開けて。これは監禁よ」


 一分もしないうちに扉が開いた。


 義人は青ざめた顔で立っていた。


「……悪かった」


 私は扉を閉め、彼を見ようともしなかった。


 その日の午後、義人は友人の高瀬亮平を訪ねた。


 亮平は会員制のバーを経営しており、義人を面と向かって叱れる数少ない人間だった。


「静香を自分のマンションまで送って、初音の誕生日まで忘れたのか?」


「別れたいと言われた」


「当たり前だろ。静香は既婚者だ。夫か家族に連絡するなり、タクシーを手配するなりできた。それなのに、自分で部屋まで連れていった。しかも初音を部屋に閉じ込めたって?」


 義人はグラスを強く握った。


「一分もなかった」


「一分あれば、怖がらせるには十分だ」


 亮平は冷たい目を向けた。


「身代わりじゃないと言うなら、どうして今も写真を残している。まずは、自分が本当に誰を愛しているのか考えろ」


 義人がケーキを買って家へ戻ったとき、私はすでにいなかった。


 テーブルの上には、短い書き置きだけが残されていた。


「行きます。いつか、お互いに本当に愛している相手を見誤らずに済みますように」


 私は大学時代の恩師である真理子先生に連絡した。


 先生は以前、汐見市で研修を受け、自分が立ち上げるアトリエに加わらないかと誘ってくれていた。あの頃の私は義人のそばにいたくて、その機会を断ってしまった。


「先生、以前のお話は、まだ間に合いますか」


「研究科は来週からよ。手続きを済ませられる?」


「はい」


 その日のうちに乗れる新幹線の切符を取り、私は汐見市へ向かった。


 列車が白桜市を離れても、振り返ることはなかった。



4



 一年後、私は若手ファッションデザイナーとして白桜市へ戻ってきた。


 この一年で、服飾専門学校の一年制研究科を修了し、真理子先生のアトリエでも複数のブランド案件に携わった。


 独立系ブランド「MÉRIEL(メリエル)」から春のスペシャルコレクションへ招かれ、私は外部デザイナーとして一つのラインを担当することになった。


 ショー当日、真理子先生はバックステージで私のスタッフパスを直してくれた。


「準備はできた?」


「サンプルもモデルの採寸データも確認しました」


「仕事の話をしているんじゃないわよ」


 私は胸元のパスを整えた。


「昔のことに、今日の仕事を邪魔させるつもりはありません」


 バックステージは足の踏み場もないほど慌ただしかった。


 ドレスのファスナーを確認して振り返ると、そこに静香がいた。彼女もデザイナーとして、このコレクションに参加していたらしい。


「お久しぶりです」


 静香は一瞬、言葉を失った。


「いつ戻ってきたの?」


「昨日です」


 進行責任者に名前を呼ばれ、私はそれ以上話さずに持ち場へ戻った。


 開演前、スタッフエリアから招待客席を見ると、義人が静香の隣に座っていた。私が姿を見せてから、彼の視線はずっとこちらに向けられていた。


 ショーが終わり、化粧室でメイクを直していると、隣の女性たちが静香の話をしていた。


「水城さん、この前離婚したんでしょう?」


「神崎社長がずっと水城家のことを気にかけているらしいよ。今度こそ二人、付き合うんじゃない?」


 私は口紅の蓋を閉じた。


 胸がざわつくことはなかった。化粧室を出ると、廊下の奥に義人が立っていた。


「いつ戻った」


「あなたには関係ありません」


 彼は私の手首をつかんだ。


「一年ぶりに会ったのに、名前すら呼ばないのか」


「神崎さん、手を離してください」


 義人は複雑な目で私を見下ろした。


「ずいぶん強くなったな」


「それも、あなたには関係ありません」


 会場のほうから静香が歩いてきた。


「義人、宮本さんが呼んでいるわ」


 私は手を振りほどいた。


「水城さんが待っていますよ」


 その夜、私はあらかじめ購入していた、駅近くの1LDKのマンションへ戻った。


 寝室が一つと、仕事場を兼ねたリビングがあるだけの部屋だったが、家具も照明もすべて自分で選んだ。ここには青いワンピースもなければ、家具の置き場所を決める人もいない。


 シャワーを浴びたあと、インターホンが何度も鳴った。


 モニターには義人の姿が映っていた。帰ってほしいと告げたが、廊下でのやり取りが隣室にまで聞こえたらしい。仕方なくドアをわずかに開けた瞬間、彼は扉を押さえ、その隙間から中へ入ってきた。


「出ていって」


 義人は私を玄関脇の壁へ押しつけ、唇を重ねた。


 必死に抵抗し、力任せに突き飛ばして、ようやく離れることができた。


「神崎義人、本気でどうかしてる」


 呼吸を乱した彼の目は赤かった。


「俺も、自分がどうしてこうなったのか知りたい」


「おかしくなるなら、水城さんのところへ行って。私たちは一年前に別れたの」


「別れるなんて、俺は認めていない」


「あなたの許可は要らない。今すぐ出ていかなければ、警察を呼びます」


 義人は数秒、私を見つめたあと、ようやく扉の前からどいた。


「……分かった。そこまで俺を拒むんだな」


 扉が閉まると、私はすぐに管理会社へ連絡し、今後は神崎を取り次がないよう頼んだ。念のため、共用部の防犯カメラ映像も保存してもらった。


 さらに警察相談専用電話へ連絡し、今夜のことを相談記録として残した。


 あの夜、私は初めて思い知った。


 目の前の男は、かつて私を安心させてくれた義人ではなくなっていた。



5



 スペシャルコレクションが成功したあと、MÉRIELのクリエイティブディレクターである宮本怜司さんから、一年間の業務委託契約を持ちかけられた。


 契約書には業務内容や報酬、守秘義務、成果物の権利帰属が明記されていた。私は弁護士に内容を確認してもらい、約束の日にブランド本社を訪れた。


 会議室へ入ると、静香がすでに席に着いていた。


 宮本さんは、次のプロジェクトについて説明を始めた。


「二月十四日に向けて、バレンタイン限定コレクションを発表します。お二人には、それぞれ一つずつ企画一式を提出してもらい、社内選考会でメイン案を決定します」


「最終データはプロジェクト管理システムから提出する形ですか」


「電子データは暗号化されたクラウドへアップロードしてください。紙の資料はバックアップ扱いです」


 契約を終えて一人でビルを出ると、義人の車が正面に止まっていた。


「どこへ行く。送る」


「結構です」


 彼は私の前まで来ると、声を落とした。


「初音、以前のことは俺が悪かった。誕生日のことも、静香のことも、扉に鍵をかけたことも、すべて謝りたい」


「もう終わりましたか」


 そのとき、静香がビルから駆け出してきて、親しげに義人の腕へ絡みついた。


「義人、迎えに来てくれたの?」


 義人は私を一度見たあと、静香の手を外した。


「運転手が裏口で待っている」


 私はその場を離れようとした。


 義人は追いつくと、私の腕をつかみ、路肩に止めた車へ引っ張っていった。


「離して!」


「一度、きちんと話す必要がある」


 助けを呼ぶ間もなく、助手席へ押し込まれた。


 ドアがロックされた瞬間、私はスマートフォンを取り出したが、義人が画面に手を重ねた。


「傷つけるつもりはない。ただ、話をしたいだけだ」


「無理やり車に乗せた時点で、その言葉には何の意味もありません」


 それきり、義人は何も言わなかった。


 窓の外を流れていく街並みを見ながら、私はスマートフォンの緊急通報画面に指を置き続けた。彼はそれに気づくと、それ以上端末には触れなかったが、車の速度だけが上がっていった。


 市街地を抜けた車は、やがて神崎家の前で止まった。


 義人は私を連廊へ引き込み、かつて使っていた離れの部屋へ連れていった。


 カーテンも、棚も、ベッド脇の読書灯も、私が出ていった日のままだった。クローゼットには、持ち出さなかった青いワンピースまで残っている。


 以前は最も安心できる場所だったはずなのに、今は一刻も早く逃げ出したかった。


「何がしたいの」


 義人はネクタイを緩め、怒りを押し殺した顔で近づいてきた。


「俺が一年間ずっと君を捜していたと知っているくせに、戻ってきた途端、他人を見るような目を向けるのか」


「当然でしょう」


 義人は私をベッドの端へ押し倒し、唇を重ねた。


 抵抗しても、手首を強くつかまれて動けない。息をのみ込む音が漏れた瞬間、彼は突然動きを止めた。


 ようやく、自分が何をしているのか気づいたようだった。


 義人は手を離し、青ざめた顔でベッドの端に座った。


「そんなに、俺が嫌いなのか」


 私は乱れた服と髪を整え、靴を履いた。


「今は、あなたからできるだけ遠くへ行きたい」


 義人が再び私の腕をつかんだ。


「行くな。今度いなくなったら、もう見つけられないかもしれない」


「もう一度止めたら、ここに残るのは人間じゃなくて、遺体かもしれない」


 彼の手が弾かれたように離れた。


 私は振り返らず、神崎家を出た。


 マンションに戻ると、扉を二重に施錠し、長い間、玄関に座り込んでいた。


 私はずっと、義人の強引さを「守ってくれている」と思い込んでいた。


 けれど、愛を理由にした強制も、結局は人を傷つける行為なのだ。



6



 翌朝、私は無理にでも意識を仕事へ戻した。


 一か月あまりかけて、バレンタインコレクションの企画を完成させた。電子データは規定どおりプロジェクト管理システムへアップロードし、紙のデザイン画と生地スワッチは宮本さんのオフィスへ届けた。


 宮本さんは出張中だったため、管理部の派遣スタッフが受付記録を残し、資料を預かった。


 三日後、緊急の呼び出しを受けた。


 会議室のテーブルには、ほとんど同じ二組のデザイン案が並べられていた。中心となるシルエットも、生地の組み合わせも、細部の処理も一致している。


 宮本さんは険しい表情をしていた。


「お二人とも、説明してください」


 私は制作記録を開いた。


 最初のラフだけでなく、立体裁断で調整した寸法、生地試験の結果、各段階の修正日まで残してある。シルエットから細部まで、一か月以上かけて少しずつ作り上げたものだった。


「これは私のデザインです。最初のラフと、各修正版の作成記録があります」


 静香は、自分の紙資料をテーブルへ押し出した。


「私のほうが先に提出しました。受付をしたスタッフが証明できます」


 呼ばれた派遣スタッフは、うつむいたまま口を開いた。


「水城さんが先にファイルをお持ちになりました。桜庭さんが提出したのは、その翌日です」


 私はすぐに彼女を見た。


 提出した日、彼女は封筒に書かれた名前とプロジェクト番号を確認し、受領票へ時刻まで記入していた。宮本さんが戻り次第、すぐに渡すと念を押されたことも覚えている。


「私が提出した日、受領票にあなたが署名しましたよね」


「その用紙は……見つかりません」


 彼女は一度も私と目を合わせなかった。


 宮本さんがオフィスエリアの入退館記録を確認させると、紙の記録簿からも、ちょうどその一ページだけが抜けていた。


 偶然が重なりすぎて、会議室の空気は完全に冷え切った。


 宮本さんはオフィス前の防犯カメラ映像を確認するよう指示した。しかし、設備管理の担当者によれば、その夜のローカル録画は破損し、すぐには再生できないという。


 静香の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「今の時点で証明できるのは、私の資料のほうが先に存在していたということだけです」


「紙を出した順番では、制作時期は証明できません。クラウド上の作成履歴と、途中経過を真理子先生へ送ったメールには、すべて日時が残っています」


 そのとき、会議室の扉が開いた。


 義人が、神崎ホールディングス系列のサイバーセキュリティ会社に所属する技術者を伴って入ってきた。MÉRIELのプロジェクト管理システムはその会社が保守を担当しており、宮本さんが緊急のデジタル・フォレンジックを正式に依頼していたのだ。


 技術者は法務担当者の立ち会いのもと、サーバーのバックアップと監査ログを確認した。


 私のデータは六週間前に作成され、その後の修正履歴も完全に残っていた。


 一方、三日前の深夜、受付を担当した派遣スタッフのアカウントから、私のプレビューデータがダウンロードされていた。端末側の履歴は削除されていたが、一般ユーザーには消せないサーバー側の監査ログが残っている。


 さらに入退館管理システムには、静香が同じ夜に宮本さんのオフィスへ入った記録もあった。


 派遣スタッフは、とうとう事実を認めた。


 静香から、正社員登用を宮本さんへ推薦すると持ちかけられ、紙の受領日時を書き換えたという。社内の記録を少し直すだけだと思い、デザイン案そのものを盗んでいたとは知らなかったらしい。


 宮本さんは画面を閉じた。


「水城さん。あなたは守秘義務と成果物の権利に関する条項に違反しました。本日付で業務委託契約を解除します。今後は法務部を通して対応します」


 静香は勢いよく立ち上がった。


「この企画は、もともと私が任されるはずだったのよ! この人が戻ってきた途端、どうして競争に変えるの?」


「参加してもらうとは言いましたが、あなた一人に任せると約束したことはありません」


 警備員が会議室へ入ってきた。


 静香は義人を振り返った。


「あなたまで、その人の味方をするの?」


「事実はもう明らかだ」


「昔は、私のことを一番に考えてくれたじゃない!」


 義人の声が冷たくなった。


「俺たちの関係については、もう話したはずだ。君が陥れようとしたのは、俺が愛している人だ。だが、仮に初音と俺が無関係でも、不正を隠すつもりはない」


 警備員に連れられながら、静香は私を振り返った。


「桜庭初音。戻ってきたことを後悔させてあげる」


 ビルを出ると、義人があとを追ってきた。


「今回のことは、ありがとうございました」


「君の潔白を証明したのは、君自身が残していた記録だ」


 彼は距離を詰めようとはせず、数歩離れたところで立ち止まった。


 その姿を見て、ふと昔の自分を思い出した。


 かつての私も、何もかも投げ出すような目で、義人だけを見ていた。



7



 義人から、近くの喫茶店で話したいと言われた。


 今度は、私も断らなかった。


 彼は私がよく飲んでいたウィンナーコーヒーを注文し、自分にはブラックコーヒーを頼んだ。


「何を話したいんですか」


 義人はしばらく黙っていた。


「静香とは子どもの頃からの知り合いだ。二十歳のときに祖父が亡くなり、俺は大学を終えながら、グループの経営実務を学んでいた。あの時期、ずっとそばにいてくれたのが静香だった。彼女を好きだったことは否定しない」


「そのあと、どうなったの」


「静香は別の男との結婚を選んだ。俺は友人として結婚祝いを贈り、それからは昔なじみとして接してきた」


 私はカップの中をスプーンで静かにかき混ぜた。


「それでも、初めて私を見たときは、静香さんを思い出した」


「ああ」


 義人はもう目をそらさなかった。


「最初の頃、君に静香の面影を重ねていたことは否定できない。だから必要以上に甘く接していた部分もあった。けれど、すぐに君たちがまったく違う人間だと分かった」


 彼は一度、言葉を区切った。


「君はおとなしく見えて、誰より頑固だ。人に頼るのが苦手で、一度決めたことは簡単には変えない」


「青いワンピースは?」


「最初に贈ったのは、転校してきた日に君が似た色の服を着ていたからだ。それから毎年贈るのが習慣になった。あの色が、俺の過去の記憶とも結びついていたことに気づかなかった」


 義人は私を見た。


「君と静香を一度も重ねたことがないと言えば、嘘になる。だが、君と付き合うと決めたとき、好きだったのは初音だ」


 少し間を置き、彼は視線をコーヒーへ落とした。


「君が出ていったあと、汐見市にいることも、真理子先生のアトリエで学んでいることも、すぐに分かった。それでも会いには行かなかった」


「どうして?」


「俺が現れたら、君は逃げるために汐見市を離れるかもしれない。せっかく取り戻した夢まで、また捨てさせるのが怖かった」


「私はあなたから逃げるために行ったんじゃない。デザイナーになるために行ったの」


「あとになって、ようやく分かった。以前の俺は、君の選択がすべて自分に関係していると思い込んでいた」


 初めて聞く、飾りのない答えだった。


「誕生日の夜、静香は夫と揉めていた。俺は彼女をマンションへ送り、夫が来たのを確認してから出た。裏切るようなことは何もしていない。それでも、君の誕生日を忘れた。君があの場面を見たら、どう感じるかも考えなかった」


「私を部屋に閉じ込めた。マンションへ無理に入ってきて、今度は車で神崎家まで連れていった」


 義人の顔から血の気が引いていった。


「すまなかった。君を失うのが怖くて、そばに留めさえすれば元に戻れると思った。君の意思を無視した。言い訳はできない。あれは守ることじゃなかった」


「謝ったからといって、なかったことにはならない」


「分かっている」


 彼はコーヒーカップを握りしめた。


「初音、戻ってきてほしい。もう静香を俺たちの間に入れたりしない」


 私は顔を上げた。


「静香さんだけが、私たちの問題だったわけじゃない」


 以前の私は、彼を愛することに自分のすべてを注ぎ、義人に大切にされることで、自分の価値を確かめようとしていた。


 そして義人は、私にとって何が一番いいのかを、私より先に決めることに慣れていた。


「誕生日のことがなくても、私たちはいつか同じように別れていたと思う」


 義人は否定しなかった。


「だから答えは、戻りません。少なくとも今は」


 私は席を立ち、喫茶店をあとにした。


 胸のつかえが取れたからといって、受けた傷まで消えるわけではない。



8



 自宅へ向かうあいだも、喫茶店での会話が頭から離れなかった。


 マンションの前で鍵を取り出した瞬間、背後から口元を布で塞がれた。必死に抵抗したが、すぐに後頭部へ強い衝撃を受けた。


 次に目を覚ましたとき、私は古い倉庫の椅子に縛りつけられていた。


 扉が開き、静香が入ってくる。彼女は私の口に詰められていた布を乱暴に引き抜いた。


「縛られて連れてこられた気分はどう?」


「今すぐ解放してください。これは犯罪です。今なら、警察に事情を説明する余地はあります」


 静香は私の顎を強くつかんだ。


「仕事も義人も、全部あなたに奪われた。せっかくいなくなったのに、どうして戻ってきたのよ」


「仕事を失ったのは、あなた自身が不正をしたからです。義人と付き合えなかったことも、私とは関係ありません」


「あなたがいなければ、義人が私を拒むはずがない!」


 彼女の声が倉庫に響いた。


「昔は服を買ってくれた。落ち込んだときには、ずっとそばにいてくれた。離婚して白桜市へ戻れば、すべて元に戻ると思っていたのに」


「そう思い込んでいただけです。二人の間にあった問題は、私が戻る前から存在していた」


 静香の平手が頬に飛んできた。


 彼女は私のバッグから取り出したスマートフォンを掲げた。


「義人には、あなたの写真とここの位置情報を送ったわ。一人で来て、私と結婚すると約束しなければ、あなたを殺すって」


 しばらくして、倉庫の外で車が急停止する音がした。


 シャッターが持ち上がり、義人が駆け込んでくる。


「初音!」


 静香はテーブルの上にあった包丁をつかみ、私の首筋へ押し当てた。


「来ないで。近づいたら、この人を殺す」


 義人はその場で足を止めた。


「静香、刃物を置け。警察には通報してある」


「やっぱり、その人を助けに来たのね」


「初音を放してくれ。望みがあるなら、俺と話せばいい」


「なら、私と結婚して」


 静香は歪んだ笑い声を上げた。


「今ここで結婚すると約束して。そうしたら、この人を放してあげる」


「嘘で君に約束することはできない」


 首に回された腕へ、力がこもった。


 義人が一歩前へ出る。


「君が憎いのは俺だろう。初音は、俺たちの過去とは関係ない」


 静香の意識が義人へ向いた瞬間、私は椅子ごと横へ体をぶつけた。


 椅子が倒れ、義人が飛び込んで静香を突き飛ばす。彼はまず私を刃物から遠ざけた。


「けがは?」


「先に縄を解いて」


 静香はすでに床から立ち上がっていた。


 包丁を握ったまま、こちらへ突進してくる。


「全部、あなたのせいよ!」


 義人が私の前へ身を入れた。


 刃が彼の腹部へ突き刺さり、白いシャツがたちまち赤く染まった。


 ほとんど同時に警察官が倉庫へ突入し、静香を床へ取り押さえた。


 私は義人のそばに膝をつき、救急箱の止血パッドを傷口へ強く押し当てた。


「私を見て。目を閉じないで」


「初音……無事でよかった」


 あとで聞いた話では、義人は私のスマートフォンから送られてきた写真と位置情報を受け取ると、すぐに110番通報したという。


 静香はコレクションのあとから私を尾行し、マンションを突き止めていたらしい。その日も建物の近くで待ち伏せしていた。


 静香は現場で警察官に取り押さえられ、逮捕監禁、傷害、殺人未遂などの疑いで現行犯逮捕された。最終的にどの罪で起訴するかは、捜査結果を踏まえて検察が判断することになる。


 義人は救急車で、白桜市立医療センターへ搬送された。



9



 義人が手術室へ運ばれたあと、私は病院で簡単な事情聴取を受けた。


 担当の刑事は、誘拐された状況と刃物が使われた経緯、義人が負傷した場面だけを確認し、詳しい調書は私の体調が落ち着いてから作ることになった。


 義人の緊急連絡先になっていた美代さんと亮平さんも、ほどなく病院へ駆けつけた。


 手術を終えた医師が出てくると、私たちは一斉に立ち上がった。


「容体はどうなんですか」


「刃は主要な臓器を避けています。出血も止まりました。現時点で命に別状はありませんが、しばらくは慎重に経過を見る必要があります」


 その言葉を聞いた途端、私は壁に手をつき、その場にしゃがみ込んだ。


 張り詰めていた力が、一気に抜けていった。


 手術後の夜は、手術室前の待合スペースで過ごした。


 美代さんから何度も帰って休むよう言われたが、目を閉じるたび、倉庫で倒れた義人の姿が浮かんだ。


 翌日の午後、看護師が私のところへ来た。


「神崎さんが意識を取り戻しました。桜庭さんに会いたいとおっしゃっています」


 病室へ入ると、義人の顔はまだ青白かった。


 それでも、最初に口にしたのは自分の傷のことではなかった。


「首の傷は?」


「浅い傷だけです」


 私は彼の手を握った。


「どうして、あの刃物を受けたの。どれだけ怖かったか分かってる?」


「考える時間がなかった」


「あなたはいつもそう。私をどう守るかも、私を行かせないことも、全部一人で決めた。今度は、私の代わりに刺されることまで、勝手に決めた」


 義人の指が、私の手をわずかに握り返した。


「すまない」


 私は顔を伏せ、彼の手の甲へ額をつけた。


「早く治して。もう二度と、こんな姿を見たくない」


「初音。今回のことで、俺のところへ戻る必要はない」


 私は顔を上げた。


「前に、もう一度付き合ってほしいと言ったでしょう。あの言葉は、まだ有効?」


 彼の瞳がわずかに揺れた。


「もちろんだ」


「過去に何もなかったふりはできない。あなたが私をかばってけがをしたからといって、傷つけられたことを全部消すこともできない」


「そんなつもりはない」


「分かっています。だから、私もきちんと答えます。すぐに昔の関係へ戻ることはできません」


 義人の目に影が落ちたが、それでも静かにうなずいた。


「分かった」


「でも、あなたともう一度、最初から知り合ってみたい」


 私は彼へ手を差し出した。


「はじめまして、神崎さん。桜庭初音です。ファッションデザイナーをしています」


 義人は長い間その手を見つめ、やがてそっと握った。


「はじめまして、桜庭さん。神崎義人です。これから、よろしくお願いします」


 彼は私を強く引き寄せることなく、ただ手を包むように握っていた。


「初音が、本当に俺を信じてもいいと思える日まで待つ」


「そんなに悲壮な言い方をしなくていいから、まずは傷を治してください」


 義人は目を覚ましてから初めて、わずかに笑った。


 今度は私のほうから身をかがめ、彼の唇へ短く口づけた。


 私たちは過去へ戻るのではない。


 もう一度、初めて会うところから、互いに機会を与えることにしたのだ。



10



 俺は神崎家の一人息子として生まれた。


 両親は早くに事故で亡くなり、祖父が一人で俺を育ててくれた。水城家とは昔から家同士の付き合いがあり、明るい性格の静香は、少年時代の俺が友人と呼べる数少ない相手だった。


 十八歳になると、経営学を学ぶため海外へ渡った。


 二十歳のとき、祖父が突然倒れた。日本へ戻ったときには、最期に立ち会うことすらできなかった。


 グループは事業承継のただ中にあり、俺は大学での学業を続けながら、顧問弁護士や古参役員に支えられ、経営実務を学んだ。


 あの時期、静香はずっとそばにいてくれた。


 彼女を好きだった。グループの経営が落ち着いたら、想いを伝えようと考えたこともある。


 だが、静香は家から勧められた相手との結婚を先に選んだ。俺は旧友として結婚祝いを贈り、その気持ちを過去へ置いてきた。


 数年後、桜庭夫妻が交通事故で亡くなった。


 神崎ホールディングスが最も苦しかった時期、桜庭社長には助けてもらった。葬儀には、何があっても自分で参列しなければならなかった。


 斎場で、俺は初めて初音を見た。


 若い頃の静香と、あまりにもよく似ていた。顔立ちも、目元のほくろも、うつむいたときの表情まで、一瞬重なって見えた。


 だから、言葉を失ったことは事実だ。


 それでも、彼女を支えようと決めた理由は、祭壇のそばに一人で立っている姿だった。


 祖父を失ったあとの自分を思い出した。


 初音はすでに十八歳で、俺が保護者になる必要はない。できることは住む場所を用意し、信託銀行や弁護士と連携しながら、学業を続けられるよう手を貸すことだけだった。


 最初の数か月、初音に静香の面影を重ねていた時期があったことは否定できない。


 だが、彼女はすぐに、まったく別の人間だと教えてくれた。


 人に助けを求めることが苦手で、学校で傷つけられても一人で耐えようとした。デザインに対する集中力は驚くほどで、一枚のパターンを深夜まで何度も引き直した。


 柔らかく見えるのに、一度決めたことは誰にも変えられない。


 気づいたときには、初音はもう、誰の影でもなかった。


 大学を卒業したあと、初音から好きだと告げられた。


 俺は、依存を恋愛と取り違えていないか確かめ、十一歳の年齢差についても念を押した。


 彼女はすでに神崎家を出て、仕事も自分の生活もあり、自分の感情に責任を持てると言った。


 俺は、その想いを受け入れた。


 付き合った二年間、俺は初音に頼られることにも、彼女の代わりに何もかも手配することにも慣れていった。


 グループ内で彼女の立場や仕事について余計な噂が立たないよう、関係を公表しなかった。だが、それを初音自身が望んでいるか、真剣に尋ねたことはない。


 仕事で忙しいときには、俺が店や車を手配した。困ったことがあれば先に周囲へ連絡して解決し、結果だけを伝えた。


 出張へ同行することもあれば、俺が深夜に帰宅するときまで明かりをつけて待っていることもあった。


 俺は、そんな彼女の存在を当たり前だと思っていた。


 悪意がなければ、自分の決定はすべて彼女のためになると信じていた。


 初音が二十四歳になった夜、静香の父親から電話を受けた。


 静香が夫と口論し、バーでひどく酔っているという。俺は彼女を都心のマンションへ送り、夫を呼んだ。夫が到着してから部屋を出たが、初音が一人で待っていることを完全に忘れていた。


 翌日、初音は、最初に会ったとき誰かを思い出したのかと尋ねた。


 俺は恥ずかしさから答えられず、彼女を失う恐怖で理性まで失った。


 別れを告げられたあと、部屋に鍵をかけた。一分にも満たなかったとしても、初音の自由を奪ったことに変わりはない。


 ケーキを持って戻ったとき、彼女はもういなかった。


 汐見市へ行ったことを調べるのは難しくなかった。


 秘書から、初音が以前断った服飾の研修を受け、昼は学び、夜は真理子先生のアトリエで働いていると聞いた。


 何度も汐見市行きの切符を買った。それでも、最後まで列車には乗らなかった。


 ようやく自分のために生き始めた彼女の前へ無理に現れれば、もっと遠くへ追いやるだけだと思った。


 この一年で、初めて二人の時間を細かく振り返った。


 初音の従順さを信頼だと思い、俺に頼る姿を愛情の証だと受け取っていた。


 彼女が俺のそばに残るため、どれほど自分の機会を諦めていたのかにも気づかなかった。


 一年後、初音はMÉRIELのコレクションに戻ってきた。


 髪は少し短くなり、胸にはスタッフパスを下げていた。混乱するバックステージでも落ち着き、自分の作品のそばに立っていた。


 もう、進む方向を誰かに決めてもらう必要などない姿だった。


 それでも俺は彼女を留めようとして、マンションへ押し入り、さらに神崎家へ無理やり連れ戻した。


 初音の目に恐怖が浮かんだ瞬間、ようやく自分が最後に残った想いまで壊そうとしていると気づいた。


 盗作事件で俺がしたことは、システムを保守する会社の技術協力を手配しただけだ。


 初音の潔白を証明したのは、彼女自身が残していたラフやメール、修正履歴だった。


 静香が初音を誘拐したとき、俺は先に110番通報した。


 それでも一人で倉庫へ飛び込んだ。


 刃が体に入った瞬間に思ったのは、初音がその先から外れたということだけだった。


 目を覚ましたあと、最も怖かったのは、初音が許してくれないことではない。


 罪悪感だけで、俺のもとへ戻ってくることだった。


 だが、彼女はもう一度、最初から知り合いたいと言ってくれた。


「はじめまして、神崎さん。桜庭初音です。ファッションデザイナーをしています」


 あの瞬間、ようやく分かった。


 俺たちに必要だったのは、過去へ戻ることではなかった。


 今度こそ、彼女の瞳の向こうに別の誰かを探したりしない。


 俺が見つめるのは、桜庭初音だけだ。







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