勇気の代償
皆の中に自分で自分のモノを咥えて見ようと思った勇者は入るだろうか?
もしくは自分で自分のフランクフルトを咥えてみようと思った事がある人は心でそう念じてみるか。
この作品の感想欄に書くか或いはこっそりと私にメッセージを送って欲しい。
私ははっきり言って無い。人にしてもらおうとかそう考えた事も皆無だ。
第一アレは生殖器官であり、尿を排出する場所だぞ。相手が自分の命を狙う暗殺者だったりすればほんのわずかな間に食いちぎられてしまうことっだろう。
仮に相手が好意を持っている素振りを見せたからと言ってすぐにそれを信じてしまうのは大人の男性としていかがなものだろう。
また女性諸君も異性への好意をチラつかせながら、その実は独身生活最後の思い出として漢フランクフルトを食いちぎってやろうなどという邪心は捨てていただきたい。
どれほど一昔前よりも多様性が認められる世の中だったとしても人としての最低限のラインは守って欲しいものだ。
さて、皆様方。今回の思考実験とは前述の通り”不可能を可能にしようとする試みは無用か?”という話である。
とかく努力という代物は泥臭く現代の若者は避けて通る傾向が強い。
多くの場合、努力の是非はともかく社会の通過儀礼としての難度の高い試みに挑戦する、もしくはさせられるといった状況は社会人であるならば何度か遭遇した事がある事例だろう。
人間という物は実に容易く自分以外の誰かに”火中の栗を拾ってこい”というものだ。
自分で出来もしない事を人にやらせて失敗すれば無能の猿と罵倒し、やっとの苦労で達成すれば出来て当然とか生意気な輩だと一方的に貶してくる。
これはもう種族としての悪習慣だろう。
前述の命題に当てはめるならばあなたの上司が”今度の会議で自分の尺八を吹いてみせろ。出来なければ貴様は免職だ”と恫喝するのだ。
日本は例外なく縦社会(※尺八の話題だけに)、もしも断ろうものならば上司の尺八の手入れをさせられるかもしれない。憂慮すべき事案だろう。
さて、ここで物語の主導権は君の手に委ねられるだろう。
このまま出川哲郎似の老獪な上司の汚い尺八を吹いてあげるのか、もしくはスパルタクス並みの反骨精神を発揮して尺八を噛みちぎるのか。
さあ君は英雄になるのか、それとも痩せイヌのまま終わるのか。翻って本題の主旨はそこにある。
他人のフランクフルトを自分で咥えるという事はある意味、自慰に近い行為なのかもしれないが逆説的に捉えればそれは社会通念への反逆、引いては自立心の芽生えとも考えられるだろう。
モノがフランクフルトだけに。(※ →ここ笑うところ)
コロナ禍から続くsy会の低迷によって自己の定義が揺らいでいる貴方に問いたい。
今こそ勇気ある一歩を踏み越えて、出川哲郎似の上司のではない自分のフランクフルトを咥えてみてはどうだろうか?
結果、新しい世界が見えてくる事は他でもない私が約束しよう。
まあ私は尺が足りないのでやりようがないのだが…。




