ある英雄と、怪物の物語
昔むかし
闇の底から、ひとつの怪物が現れました。
その怪物には、どんな剣も届かず、どんま魔法も通じません。
王国に現れたそれは、音もなく人々の命を奪っていきました。
誰もが絶望しかけたその時、一人の魔導士が王の前に進み出ます。
「私が、その怪物を退治しましょう」
彼はそう言うと、ひとり闇の中へと歩みだしました。
王は勝利を信じ、民はその背を見送り
子供たちは英雄の帰還を望みました。
この国に語り継がれる英雄譚。
どんな傷を負っても倒れず
恐ろしい怪物から王国を救った
不死の魔導士、エリオット・クロウの物語。
その名は歴史に刻まれ、語り継がれている。
子供たちは目を輝かせる。
恐れを知らず、国を守り抜いた勇者の姿に。
だが――
その物語を語る大人たちは誰も知らない。
闇の怪物の正体を。
英雄が最後に倒したものを。
そして、エリオット・クロウという男が
何から逃げ、何を恐れ、何を選んだのかを。
語られる英雄譚が、一人の臆病者の踏み出した
勇気の一歩の物語だったことを。
――その始まりは、決して英雄的とは言えないものだった。
砦は戦火に包まれていた。
城壁を揺らす衝撃に石の砕ける音。
炎の魔法が夜を昼のように照らしている。
怒号と断末魔が入り混じり、鉄と血の匂いが風に乗って流れ込んでくる。
その一角、古びた書物庫。
誰の目にも触れられることなく、ただそこに「在る」だけだった私は
扉が荒々しく開かれる音を聞いた。
不規則で弱く、今にも崩れ落ちそうな足音が響く。
荒い呼吸、鎧の擦れる音。
彼が追い詰められていることは、すぐに分かった。
彼は転がるように書物庫に入り込み、棚の影に背を預けて座り込む。
外では剣戟と怒号、魔法の爆ぜる音が響いている。
「いやだ……こわい……死にたくない……!」
彼は恐怖を払うかのように頭を掻きむしり、子供のように震えていた。
外からの足音が近づくたび、彼の身体は石のように硬直する。
やがて追手は遠ざかり、書物庫には重い静寂が落ちた。
彼はゆっくりと息を吐き、視線を落とす。
そこで、私と目が合った。
棚の奥、光も届かぬ隙間に差し込まれた一冊の魔導書。
それが私だ。
埃にまみれ、名も無く、封もされず、ただそこに在り続けた。
男は引き寄せられるように震える手で私を引き抜き、ゆっくりと開く。
白紙だったページに、じわり、と文字が滲む。
「死を恐れる者よ」
だが、私が語っているわけではない。
私はただ、望む者の願いを映すだけだ。
男の名はエリオット・クロウ。
後に英雄と呼ばれる男だ。
彼が所属する王国と隣国は、国境の荒野で幾度も刃を交えてきた。
争いの理由は単純だ。
国境沿いに広がる、肥えた牧草地。
たったそれだけの土地のために、幾千の命が擦り減っていく。
剣と剣がぶつかり、金属音が空を裂く。
槍が盾を穿ち、骨を砕く。
矢は雨のように降り注ぎ、兵たちは泥と血にまみれながら倒れていく。
魔導士の詠唱と共に爆炎が巻き上がる。
鎧が溶け、肉が焼け、絶叫が空気を震わせる。
戦場は理性を失った獣のようにうねっていた。
生き残るために殺す。
それだけが、この場所で唯一の理だった。
その混沌の中に彼は立っている。
黒いローブ、銀装飾の施された杖。
そしてもう片手に私を抱えて。
「エリオット・クロウ!」
歓声が上がる。
士気が上がる。
あちこちから希望が生まれる。
「恐れるな!私がいる限り――戦場の女神は、必ず我らに微笑む!」
彼は高く杖を掲げ、そう宣言した。
その声には迷いが無く、兵士たちに勇気を与えた。
その一方、敵軍の兵士たちはエリオットの姿に恐れを抱いた。
王国の魔導士、エリオット・クロウは死なない。
剣で斬られても
槍に刺されても
魔法に焼かれても
幾度となく聞かされた「不死の魔導士」の噂が彼らの心をすでに蝕んでいたのだ。
彼は契約を得た。
あの日、書物庫で。
彼の望みが契約として魂に刻まれた、その直後だった。
扉が蹴破られる音が響いた。
振り返るより早く、荒い息を吐く敵兵が書庫へ踏み込んできた。
腕には略奪品を詰めた袋。
血走った目で辺りを見回し、そして彼を見つけた。
「……チッ」
敵兵は軽く舌打ちすると、ためらいもなく彼の腹部を剣で貫く。
彼は声にならない息を漏らし膝をつく。
視界が揺れ、床に血が広がっていく。
敵兵は無表情のまま剣を引き抜き、今度は背中へと深く突き立てた。
彼の身体は前のめりに崩れ落ちる。
動かないことを確認すると、敵兵は棚を漁り金目の物を袋に放り込み
足早に去っていった。
血の匂いが満ちる書庫に残されたのは息絶えた彼だけであった。
――しかし、彼はゆっくりと目を開けた。
痛みは既に消えている。
腹に触れ、背に触れる。
そこにあるはずの傷はどこにもなかった。
「まさか……さっきのは……」
と呟き私を見る。
死なない。
――死なずにすむ。
その理解は彼を変えた。
そして。
彼の名が不死の魔導士として広まるのに
そこまで時間はかからなかった――。
――敵の指揮官が叫ぶ。
「怯むな!見よ、奴はただの人間だ!不死など噂に過ぎん!」
その声に押し出されるように、兵たちは一斉に前へ踏み出した。
弦が跳ね、矢が空を覆う。
次の瞬間には炎が炸裂し、稲妻が走り、衝撃波が地面を抉る。
爆音に土煙。
あらゆる攻撃がエリオットの身体を飲み込んだ。
轟音が止んだ土煙の向こうに影が立つ。
焼け焦げた黒いローブに砕けた銀装飾の施された杖。片手に厚い魔導書を抱えたもの。
敵兵の動揺が空気を伝わってくる。
ゆっくりと顔を上げた彼の目は鋭い光を放ったまま敵を睨みつけていた。
「では、こちらの番だな」
そう言って、彼は笑みを浮かべた。
彼の存在は、戦局を幾度も覆した。
絶望に支配された場でも
彼が立つだけで士気が戻る。
彼が前へ出るだけで敵が引く。
町へ戻れば歓声が上がり
花が投げられ、子供たちはその名を叫ぶ。
貴族たちは酒宴を開き、王ですら彼を国の守護者と称えた。
「あの時、お前に出会えてよかった」
彼は私にそう言った。
――数年後。
彼は結婚し、家庭を持っていた。
国境の戦火は激しさを増していたが
それでも彼は必ず生きて帰る。
なぜなら彼は死なないのだから。
その日も大きな戦がひと段落し
彼は久しぶりに自宅の扉を押した。
暖かな空気が彼を迎える。
暖炉から薪が弾ける音に
グリルされているであろう料理の香ばしい香り。
戦場とはまったく別の世界。
「エリオット、おかえりなさい」
妻のリリアンが柔らかな笑みを向けてくる。
そして「パパ!」と、娘のアメリアが駆けてきた。
まだ幼いその身体は、迷いなく彼の胸に飛び込んだ。
「パパ!戦いから帰ってきたの?」
「あぁ、帰ってきたよ」
その声は戦場で響く英雄の声とは別物であった。
夕食の後、彼はアメリアを膝に乗せ絵本を読んだ。
それは英雄の物語。
敵を倒し、国を救い、皆に称えられる勇者の話。
「パパもこんな風に戦っているんだよね!」
アメリアの大きな瞳が彼に向けられる。
「あぁ、そうだよ」
彼がそう答えると、娘は誇らしげに笑う。
彼も優しい笑顔を浮かべながら娘の頭を撫でる。
彼にとって家族とは何を犠牲にしても守りたいものになっていた。
戦場は次第に静かになりつつあった。
長く続いた戦争は終わりを迎えようとしている。
彼の王国は優勢、敵国もそれを認め始めているのだろう。
彼が最前線に立つ機会も、少しずつ減っていった。
ある穏やかな日。
彼は妻のリリアンと共に市場を歩いていた。
人々は英雄の姿を見つけると、自然に道を開け深く頭を下げる。
感謝と敬意、そして誇りに満ちた視線が彼に注がれる。
家族に向けるものとは違う笑みを浮かべながら
一人ひとりの声に丁寧に応じる。
「エリオット様」
「あなたのおかげで、この国は平和です」
その言葉に、彼は照れたように笑い、隣にいる妻に顔を向ける。
リリアンも優しく微笑み、そっと彼の肩に触れる。
「あなたのおかげで、この国の人々は救われているのよ」
その囁きは、どんな凱旋よりも彼の心を満たした。
その瞬間だった。
群衆の中から、影が滑り出る。
深くかぶったフードに握りしめられた光る刃。
次の瞬間に、その刃は彼の胸に深く突き立っていた。
群衆が騒めき悲鳴が上がる。
だが彼は動じず刺されたままの状態で男を見下ろす。
痛みなど無い。
血が流れようと、鼓動が止まろうと、彼には関係ない。
彼が杖を振り上げると稲妻のように閃光が走る。
男は弾き飛ばされ、道端の屋台に激しく叩きつけられた。
「警備兵を呼べ」
胸に刃を受けたまま、彼は冷静に周囲の人間に言い放つ。
倒れた男は、憎悪を剥き出しにして叫ぶ。
「化け物め……!お前さえいなければ……!」
「隣国の残党か」
彼は静かに自身の胸からナイフを引き抜いた。
刃が落ちる音が響き、鮮血が滴る。
しかし、今はもう、それすら彼に恐怖を与える事はできない。
だが。
背後で何かが崩れる音がした。
振り返った彼が目にしたのは膝をつくリリアンだった。
「リリアン?」
その顔は苦痛に歪み、胸元に赤色が滲み出ていた。
彼が駆け寄り抱き起すと温かい血が彼の手を染めた。
「どうしてだ……!なぜ……!」
リリアンの胸、そこにある傷は
ほんの数秒前に自分が刺された場所と全く同じものであった。
「ありえない、刺されたのは俺だけだ」
刺客は一人、他に仲間がいる気配はない。
その瞬間――彼の思考は暴風のように駆け巡った。
魔法の余波か?
呪いか?
ありえない
敵の策略か?
いや、偶然か?
次々に浮かぶ仮説はどれも自らの思考で否定されていく。
「まさか……」
その、喉の奥から漏れた声は英雄のものではなかった。
胸の鼓動が大きい。
どくん、どくんと徐々に早くなっていく。
締め付けられるような感覚が世界の全てを塗りつぶしていく。
周囲の悲鳴も、兵士の怒号も、遠ざかっていく。
彼は、ゆっくりと顔を上げ――そして、私を見る。
戦場で幾度も死を乗り越えてきた彼は
今、はじめて「理解をしてしまった」ような目をした。
その瞳に宿るのは、恐怖と底の見えない絶望。
問いかけは言葉にならない。
だが、私にはわかる。
彼は、こう問うているのだ。
――不死の代償は、何だ?と。
彼が望んだ不死は確かに与えられた。
だが、死そのものがこの世界から消えたわけではない。
それは世界の理に反するものだからだ。
死は失われない。
ただ、移ろう。
本来あるべき場所から、別の場所へと。
運悪く、選ばれた者へと。
不死とは、死を拒む代わりに、誰かに押し付けるものなのだから。
妻の葬儀が終わったその日から
彼は家を出なくなった。
王都の人々は、英雄の身を案じて
幾度も訪ねてきたが、扉が開くことはなかった。
かつて戦場であれほど堂々と立っていた男は
今では薄暗い室内に身を置き
その片隅で座り込んでいた。
「私は……今まで何度死んだ……?」
喉の奥で擦れるような、掠れた声だった。
震える指先が、そっと私の表紙をなぞる。
それは私に向けた問いではない。
自分自身に突き付けたものだ。
「何回……何十回……何百回……?」
戦場で斬られ、刺され、焼かれ
……時には戯れに。
その度に彼は立ち上がった。
人々は歓声を上げた。
英雄は倒れないと。
だが、それは違っていた。
倒れなかったのではい。
倒れるたびに、どこかで別の誰かが倒れていたのだと。
彼は私を見つめる。
答えを知っているはずの存在を。
「化け物め……!」
市場での男の声が、脳裏によみがえる。
それは次第に王国の民の声に変わり
戦友に変わり、やがて愛する人の声に変わった。
英雄。
守護者。
王国の盾。
だが、その正体は――誰かの命の上に立ち続ける不死の異形。
自ら命を絶つこともできない。
それすら、また誰かに移ろうだけだ。
「もし……次がアメリアだったら……?」
その想像が浮かんだ瞬間に彼の呼吸は乱れた。
胸が締め付けられ、視界が揺らぐ。
「……俺の代わりに、娘が……?」
冷や汗が噴き出し、頬を伝う。
彼は頭を抱え、なんども掻きむしった。
昼と夜の境さえ曖昧になるほどの沈黙の中で
彼は独り苦悩を抱え続けていた。
心が崩壊してしまいそうな真実を抱えながら。
そして――
孤独と葛藤の底で彷徨っていた彼は
ついに自らの沈黙を破った。
「陛下、闇の中から恐ろしい怪物が現れました」
王城、謁見の間で跪いていた彼は王にそう告げた。
「怪物とな……?」と、王は眉をひそめた。
「どんな武器も聞かず、どんな魔法も効きません。
このままでは、いずれ王都へ辿り着くでしょう」
それは嘘ではない。
武器も魔法も効かない。
誰も殺せない。
命を吸い取る怪物。
王は苦々しく拳を握った。
「討てるのか……?」
彼は顔を上げた。
その瞳はかつて戦場で見せた決意の光を宿している。
「私がいきます、私以外にはできません」
短い沈黙の末、王はゆっくりと頷いた。
「必ず、戻れ」
その言葉に彼はほんの一瞬だけ目を伏せ
ただ、深く一礼した。
それが、彼にできる唯一の返答だった。
謁見の後、彼はある貴族の館を訪れていた。
白い城壁に囲まれた庭は静かで
戦の気配など微塵も感じさせない。
門をくぐると、使用人たちが恭しく頭を下げる。
「エリオット様、お嬢様は中庭にいらっしゃいます」
彼は小さく礼を返し、石畳を進んだ。
中庭では暖かい日差しの下でアメリアが絵本を広げていた。
足音に気付き、パッと顔を上げる。
「パパ!」
弾む声と共に駆け寄ってくる小さな身体。
彼は自然としゃがみこみアメリアを抱き上げた。
「元気にしてたか?」
「うん、読み書きもできるようになったの!見て!」
差し出された紙には、ぎこちない文字で
彼の名が書かれている。
彼は目を細めた。
「すごいな。もう立派なお嬢様だ」
ひとしきり笑い合った後、彼はそばに控えていた
館の主人へ視線を向けた。
「いつも娘をありがとうございます。
預けきりで……すまない。本来なら私がそばにいるべきなのに」
館の主人は穏やかに首を振った。
「英雄殿が国と民を守ってくださるからこそ
私たちは安心して過ごせるのです。どうかお気になさらず」
彼は一瞬だけ言葉に詰まり、口の端を少しだけ上げた。
「……感謝します」
アメリアが不思議そうに二人を見上げる。
「パパ、またお仕事?」
「あぁ、ちょっと遠くに行くだけだ」
「戦い?」
小さな手がローブをぎゅっと掴む感触が、胸に刺さる。
「いや、こわい怪物を見に行くだけさ」
軽い調子で言うとアメリアは目を丸くする。
「怪物ってこわい?」
「大丈夫だ、怪物よりパパのがこわいからな」
彼は笑い、娘の額に軽く触れた。
「すぐに戻るの?」
「あぁ、すぐに戻る」
「帰ってきたら、またご本読んでね」
「もちろんだ」
彼はアメリアの頭を優しく撫でた。
「良い子で待ってろ」
そう言って彼は、明るく笑った。
門へ向かう途中、もう一度だけ振り返る。
アメリアは満面の笑みで手を振っていた。
その笑顔を胸に刻みながら、彼は館を後にした。
――翌朝。
王国中に布告がなされた。
闇より現れた怪物を討つため
不死の魔導士エリオット・クロウが
単身、討伐に向かったと。
人々は涙を流し、祈りを捧げた。
英雄の帰還を信じて。
だが、彼が向かったのは怪物を倒す旅ではない。
怪物とは他ならない彼自身なのだから。
遥かな山の頂上。
雲よりも高く、風だけが通り過ぎる孤独な場所に彼は立っていた。
「お前と出会わなければと、……何度も思ったさ」
彼の声はひどく静かだった。
怒りでも憎しみでもない。
何度も噛みしめ、ようやく飲み込んだ後悔が、
滲んでいるような声。
「だが、お前と出会わなければ、守りたいものには出会えなかっただろう」
彼は私に向かって笑う。
「お前は俺の願いを叶えただけだ。騙したわけでも呪ったわけでもない」
「願ったのは俺だ。代償があるなら払うのも俺だ。再び願おう」
彼はゆっくりと息を吐く。
「誰の命も奪うことのない場所へ」
じわり、と白紙のページにインクが滲んでいくように
文字が刻まれていく。
かつての彼は死を恐れていた。
生きたいと願い、そのためにすがりついた。
だが今、彼が選ぼうとしているのは死ではない。
死ならば、痛みも、孤独もやがては途切れる。
けれど彼が踏み出そうとしているのは終わりの無い永遠。
光も、声も、ぬくもりも届かない永遠の闇。
時間すら意味を持たぬ牢獄。
幾度も迷い。
幾度も戻り。
幾夜も眠れぬまま思索を重ねた末にたどり着いた決意。
それは死よりも重い選択だろう。
封印の扉を前に彼は静かにほほ笑んだ。
遥かな山の頂から見える空はどこまでも澄み渡っている。
この空の下に、王国があり、街があり、人があり
そして小さなあの子がいる。
「この一歩は、迷わず進める気がするよ」
彼の声は穏やかで、微塵の迷いもなかった。
その言葉にはかつての彼とは全く違う強さが宿っていた。
英雄譚はこう締められている。
エリオット・クロウは闇の中の怪物と戦い
見事それを打ち倒し、怪物は二度と現れることはありませんでした。
ですが、エリオット・クロウもまた、戻ってくることはありませんでした。
彼は自らを犠牲にして、この国を救ったのです。
私から見た彼と英雄譚の中の彼。
どちらが正しい姿なのかという事には意味がない。
彼の名は語り継がれ、彼はこの国の英雄であり続けるのだ。




