第8話「最悪の初対面」
もし、夜食を食べるたびに増える私の体重よりも「エグい」ものがあるとしたら――それは間違いなく、Korinのタクシー代だ。
「タクシー一回で、バス一ヶ月分」
そんな話を聞いた時は、笑ってた。
支払い終わって、財布の中が空っぽになった瞬間に理解した。
あれは噂じゃない。警告だ。
私はごくりと唾を飲み、レシートをポケットにねじ込む。
痛みを押し込むみたいに。
この件で、私は誓った。
しばらくタクシーには乗らない。……少なくとも、金ができるまで。
つまり……いつになるか分からない。
バッグを肩にかけ、空港へ早足で向かいながら、ニアから送られた資料を開く。
画面に出てきたのは、冷たすぎる見出し。
【業務詳細】
その下には、さらに冷たい文言が並んでいた。
――シンフィエロ・クインを危険な行動に参加させないこと。
――彼女に逃走の兆候が見られた場合、直ちに連絡。
――彼女が見知らぬ人物と勝手に接触しようとした場合、直ちに連絡。
――彼女が「安全でない」行動をしようとした場合、直ちに連絡。
読み進めるほど、私のこめかみがピクピクする。
「……これ、アシスタントの仕事じゃなくない?」
さらに下へスクロール。
『行動監視。迅速報告。』
私はそこで止まり、息を吐く。
「……これ、子守りだ」
いや。子守りの方がまだマシだ。
「監視員の仕事だろ。囚人用の」
下にはまだ長文が続いていたけど、脳みそが煙を上げる前に閉じた。
スマホをポケットに突っ込み、自分に言い聞かせる。
落ち着け。
やることは単純。
指定の場所に行って、例の“シンフィエロなんとか”を迎える。
……それだけだ。
そう思って足を速めようとした――その時。
空港アナウンスが、淡々と私の耳を刺した。
『ご案内いたします。11時20分発の国際線ご利用のお客様は――』
私は凍りつく。
11時20分。
「……終わった」
脳が、ちょうど半秒だけ停止した。
次の瞬間、声にならない悲鳴で再起動する。
(遅れてる。私、ガチで遅れてる)
私はバッグを抱えて空港へ突っ込み、人波を縫う。
まるで逃走犯みたいに。
アナウンスは相変わらず一定で、妙に腹が立つ。
頭の中は、ただ一つ。
(頼む。“プラチナブロンド”まだいてくれ)
――――
一方その頃。送迎車の出入口付近。
レオは苛立ちで今にも煙を噴きそうだった。
「……あの二人……」
歯を食いしばり、スーツケースを車へ運ぶ。
まるで人類の罪を運ばされてるみたいな顔で。
「なんでこんなカオス全部俺に押し付けて、楽しそうに消えるんだよ……」
一本のキャリーが傾く。
レオは軽く蹴って真っ直ぐにし、顔をさらに暗くした。
「ついてねぇ」
残りの荷物の山に目をやり、深呼吸する。
殺意を整えるみたいに。
「……やっと終わる」
道を渡り、残りの荷物をまとめて抱え上げる。
……が、二歩進んだ瞬間。
足元に、何かが引っかかった。
レオが止まり、下を見る。
「……は?」
靴紐がほどけていて、排水溝の隙間にがっつり噛んでいる。
「……クソ」
乱暴に足を振って引き抜こうとする。
「ほんと――」
悪態を言い切る前に。
「国内到着ゲート……B1、B2……なんでこんなに多いの……!」
女の声が、走りながら近づいてきた。
案内板を見上げたまま、百メートル走みたいな勢いで――
そして私は、目の前にいるレオを、まったく見ていなかった。
ドンッ!
硬い壁に突っ込んだような衝撃。
同時に、私の足が、ちょうど振り上がっていたレオの脚に引っかかる。
「きゃ――!」
体が半回転して、
――そのまま。
隣のゴミ箱へ、誰も頼んでないスタントみたいに、綺麗に逆さで落ちた。
……。
私は動かなかった。
これ以上ないほど恥ずかしい体勢で。
(何……今の……? 何が起きたの……?)
ゴミ箱からもぞもぞ這い出し、顔を上げると――
若い男が、荷物の散らばった地面に転がっていた。
そいつが私を見る。
私もそいつを見る。
一瞬だけ、互いに“何が起きた?”でフリーズした。
でも、その直後。
そいつの顔が歪む。怒りが火花になりそうな顔。
――だから私は先に叩いた。
「ねぇ」
服を払って、氷みたいな声で言う。
「足ムズムズすんの? 人の進路に脚上げて邪魔するとか」
「誰に言ってんだよ」
そいつが一歩寄ってくる。目が暗い。
「目が見えねぇのはお前だろ。勝手に突っ込んできたくせに」
「見えねぇ?」
私は鼻で笑う。
「あんたに問題あんの? あんたがど真ん中に突っ立ってなきゃ、私が走りながらバレエしててもぶつかんないんだけど」
「喧嘩売ってんのか?」
そいつが唸る。
「道こんなに広いのに、なんで俺に突っ込んでくんだよ。蛾かよ」
……この男、人生で会った中でもトップクラスにムカつく。
「今ここで私と口喧嘩したいなら」
私は口角だけ上げる。
「スカート履いてから来な。相手してやる」
男の目がぴくりと動いた。
「やんのか?」
「怖がると思った?」
空気が、ピンと張る。
――その時。
ポケットのスマホが、震え続けた。
(そうだ、私、クイン探さないと)
私は歯を食いしばり、理性を押し戻す。
くるりと背を向け、投げ捨てるように言った。
「脳みそ空っぽの相手するくらいなら、膝と会話してる方がマシ」
中指を立てて、私は走り出した。
背後で男が叫ぶ。
「おい、こら――!」
その後に、聞こえるか聞こえないかの呟き。
「……マジで今日、変なのしか当たんねぇ」
――――
私はロビーへ飛び込む。
人が多い。うるさい。目が回る。
プラチナブロンドを探して視線を走らせた、その時――
前方からツアー団体が、波みたいに押し寄せてきた。
ぎっしり。
カメラ。スーツケース。笑い声。呼び声。
反射で一歩下がって――
ゴン。
背中が誰かに当たる。
私はすぐ振り返り、頭を下げた。
「すみません! 急いでて――」
……返事を聞く前に、私はもう向きを戻して走っていた。
今は一秒でも惜しい。
走りながらスマホを開く。
ニアが送ってきた番号と、短いメッセージ。
【クインの番号。かけて。着いたら勝手に見分けなさい。】
「……オッケー」
私はすぐ発信した。指が少し震える。
(出て。出て……)
プツ。プツ。プツ――
そして、コールが繋がったその瞬間。
「――あそこよ」
背後から女の声。
「“あの女”がやったの」
私は振り返る。
派手めな服装。巻き髪。赤い口紅。
こっちを頭のてっぺんから足先まで眺める目は、“ここにいていい存在じゃない”と言っていた。
女は眉を寄せ、私を指差す。
「この女よ。私の物、盗んだの」
私は固まる。
「……は?」
警備員が一歩出て、硬い声で言う。
「お客様から、窃盗の申告がありました」
「お荷物とお身体の確認にご協力ください」
私は一拍だけ固まったまま――赤リップ女と警備員の顔を見て、それから遠くの壁時計を一瞬で確認する。
秒針みたいに、分針が淡々と進んでいく。
(無理。こんなことに付き合ってる時間ない)
「私は盗ってません」
早く、はっきり。
「人違いです」
私は女を避けて、通り抜けようとした。
「すみません、急いでるんです。私は――」
二歩も行かないうちに。
ぐいっと、後ろに引き戻される。
「っ……!」
頭皮が痛い。
赤リップ女が私の髪を片側ごと掴んで、逆に引っ張っていた。
爪が頭皮を引っかき、じりじりと熱い痛みが走る。
「逃げる気?」
声が高い。鋭い。
「盗んだあと、何もなかった顔して帰るつもり?」
私は振り返り、女の指の間に残った数本の髪を見て、拳を握る。
爪が掌に食い込むほど、握る。
心臓がうるさい。
――怖いからじゃない。
私は、自分が損をするのが嫌いだ。必要なら、ここで一日中でも正面からやり合ってやる。
でも今じゃない。
今は、やるべきことがある。
(ここで足止めされたら終わる)
(“プラチナブロンド”に会えなかったら――私は初日から全部台無しだ)
私は深く息を吸い込み、声を底まで落とす。
「私は。盗ってない」
「そもそも、あなたが何を失くしたのかも知らない」
赤リップ女は近づき、腕を組んで薄く笑った。
「今さら純真ぶっても無駄でしょ」
「じゃあ私の財布、勝手に羽でも生えて飛んでったわけ?」
取り巻きが一斉に乗る。
「ぶつかったあと、ネズミみたいに逃げたじゃん。怪しいに決まってる」
「素直に返しなよ。中の金額、普通に刑務所行きだよ?」
「顔は可愛いのに盗みとか、見かけ倒し~」
「だよね。顔に金使い切って、今は盗んで回収ってやつじゃない?」
笑い声。
(……あぁ、来た。めんどくさい匂い)
どうやら、こいつらは私を簡単には行かせない。
私は息を吸い、赤リップ女を真っ直ぐ見た。
「調子に乗らないで」
「なんでも好き放題言っていいと思わないで」
「好き放題かどうかはさ」
女は肩をすくめて近づく。
声は見下しそのもの。
「調べればすぐ分かるでしょ?」
「証明できるの?」
私は平然を装い、相手の出方を待つ。
「何を根拠に、私が盗んだって言ってるの」
赤リップ女は嘲るように笑う。
「根拠?」
そして私を指差す。
「ぶつかって、逃げた」
「それに私は“触られた”って感じた」
「……感じた?」
私は眉を寄せる。
女は答えない。
代わりに――私のバッグをいきなり掴んで、ひっくり返した。
「ちょ――!」
化粧品、財布、ノート、私物が床に散らばる。
私は一秒、固まった。
次の瞬間、血が顔に上る。
でも声だけは冷たく保つ。
「……満足?」
「じゃあ拾って。ちゃんと謝れ」
赤リップ女はしゃがみ、靴先で口紅を軽く蹴った。
「笑える」
「安物ばっか」
取り巻きがくすくす笑う。
拳が、爪が食い込むほど握り締められる。
赤リップ女は警備員に言った。
「ほら。まだ?」
「体に隠してるだけでしょ」
警備員が私を見る。迷いがある。
そこへ女が、甘い声で追い打ちをかける。
「私が誰か、分かってないの?」
周囲に聞こえるくらいの声で言い放つ。
「父が、この空港のVIPエリアのスポンサーなの」
「この件、管理部門まで持っていく?」
警備員の顔色が変わる。
「……お客様、規定の手順ですので」
「混乱防止のため、ご協力を――」
警備員が手を伸ばし、私の腕に触れた。
――瞬間。
私は力いっぱい振り払い、その腕を引っ掻いた。
「っ!」
警備員が声を上げる。
私は冷たく言う。
「越えないで。限度」
「私、そんなに大人しくない」
「もう一回触ったら、こっちが訴える」
赤リップ女は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐ勝ち誇ったように腕を組む。
「抵抗するってことはさ」
「バレて焦ってるんじゃない?」
私は思わず吐き捨てた。
「この――」
その時。
女の目が、きらりと光る。
床に散らばった私物の中で、何かを見つけた。
四つ葉のクローバーのヘアピン。
女がそれを拾い上げる。
「へぇ?」
鼻で笑う。
「これ、安物には見えないけど」
「私だけが被害者じゃないっぽいね?」
戦利品みたいに、私の目の前で揺らす。
体の奥が一気に熱くなる。
あいつが、そのヘアピンを触ってるだけでムカつく。
私は反射で手を伸ばした。
「それ、私の。触らないで」
私は女の手首を掴み、取り返そうとする。
女はわざとらしく声を上げた。
「あらこわーい」
そして――ヘアピンを、手放した。
私が落ちるのを取ろうとした瞬間。
ゴンッ。
女のハイヒールが、私の手首を強く蹴る。
「っ……!」
痺れる痛み。
女は肩をすくめ、無垢な声を作った。
「やだ」
「なんであなたの手が、私の足にぶつかるの?」
床で砕け散ったヘアピンを見下ろし、女は楽しそうに笑った。
「私の靴が傷ついたら」
私を見て言う。
「あなたの人生じゃ足りないくらいよ」
取り巻きが、また笑う。
私は、ヘアピンの破片を見たまま――
一秒、静止した。
頭の中で、何かが「パキッ」と折れる音がした。
(……もういい)
最初から揉めたくなかった。
でも――もう、関係ない。
任務がどうとか。
約束がどうとか。
今は、どうでもいい。
私は前に出る。
拳を振る。
バシッ。
綺麗でもない。上手くもない。
でも――確実に当たる一発。
「この……クソ女」
赤リップ女が頬を押さえ、目を見開いた。
「……私を殴ったの!?」
取り巻きが黙る。
警備員も固まる。
止めに入るより早く、女が発狂して髪を掴みに来た。
「この女ァ――!」
私も女の髪を掴む。
二人で引き裂き合うみたいに掴み合い、空港の真ん中で取っ組み合いになる。
警備員は慌てふためく。
取り巻きは叫ぶ。
その時――
胃が、ぐわっと嫌な波を打った。
来る。
すごく嫌な、でも見覚えのある感覚。
私は口を押さえる。
(やめて。今じゃない)
飲み込もうとする。
でも体が裏切る。
「ちょ、待っ――!」
そして。
私は――吐いた。
綺麗に。
完璧に。
よりにもよって、赤リップ女に。
「…………」
空気が、凍る。
女は一秒固まって――
「AAAAAA!! うそでしょォォ!!」
私は息を切らし、目が滲んだ。
ムカつく。
疲れた。
でも――少しだけ、スッとしたのも否定できない。
女が再び飛びかかって来ようとした、その時――
風みたいに柔らかいのに、はっきり通る声がした。
「……すみません」
私は顔を上げる。
プラチナブロンドの少女が、こちらへ歩いてくる。
細い体。
穏やかな顔立ち。
不思議なくらい静かな目。
彼女は自然な仕草で、私の肩に手を置いた。
「大丈夫ですか?」
私が反応する前に、彼女は私を引き上げる。
声は最後まで、優しいまま。
「立てますか?」




