第7話「監視役」
「ロンドンを丸ごと持って帰ってきたのか?」
レオは目の前の荷物の山を見上げ、噛み殺すように言った。
声が、今にも煙を吐きそうなくらい低い。
クインはぱちりと瞬きして、相変わらず丁寧な笑みを崩さない。
まるで「今日はいい天気ですね」とでも聞かれたみたいに。
「いえ……ちょっとだけ、お土産を買ってきただけです」
「ちょっと?」
レオが強調するように言い、頭上まで積まれたスーツケースの山に目をやった。
「……Korinごと知り合いでもいるのか?」
隣のクルスも固まっていた。
荷物をじっと見つめ、これは“手荷物”なのか、それとも“引っ越し”なのか確認している顔。
「……俺の車、これ入らないぞ。クイン……」
「あ」
クインは何かを思い出したように、すぐスーツケースの山にしゃがみ込んだ。
「兄さんにも、お土産があります」
「え?」
クルスが反応するより早く、クインは高級そうな紙袋を取り出し、彼の手にすっと渡した。
クルスは受け取り、開ける――
中に入っていたのは、革靴だった。
「……」
クルスが、固まる。
クインは水を渡すみたいな自然さで言った。
「兄さん、こういうの好きそうだと思って。もしサイズが合わなかったら言ってくださいね。別のを買い直します」
クルスが、完全に停止した。
そして――
ぽろぽろと涙が落ち始める。
「……俺の可愛い妹……!」
彼は靴を宝物みたいに抱きしめた。
「ありがとう……! 大事にする! 一生大事にする!!」
レオが一歩引く。
顔が引きつっている。
「……何だよ、それ」
「やめろ。怖い」
レオがこんなクルスを見るのは、生まれて初めてだった。
クインはレオの方へ向き直り、声を柔らかくする。
「レオにも、これ……」
「……は?」
「ちょっと待ってくださいね!」
クインはまたしゃがみ込み、荷物の中をガサゴソ探り始めた。
レオは腕を組み、興味なさそうにそっぽを向く。
「いらねぇ。そういうの、興味ない」
クインは顔を上げ、何か大事なことを思い出そうとするみたいに少し考える。
「レオが何が好きなのか分からなくて……でも、クルス兄さんが」
「レオはレーシングカー系が好きだって言ってました」
レオが、一瞬だけ固まる。
「……誰が言った?」
「えっと……たしか、玩具屋さんで買ったような……」
レオの眉がきゅっと寄る。
「玩具?」
「俺を子ども扱いしてんのか」
「見つけました」
クインが、レオの目の前に箱を差し出した。
レオは反射で払いのけようとする。
「だから要ら――」
……が。
手が止まった。
「……え」
箱の中は、F1のレーシングカー模型。
安っぽいプラスチックじゃない。
透明なパッケージ越しでも分かる、細部まで作り込まれた造形。
滑らかな塗装。
コレクター向けの、ちゃんとしたやつだ。
レオの手が、無意識に伸びる。
クインは当然みたいに、その箱をレオの手に置いた。
レオはじっと見つめる。
そして、ぽつり。
「……これ、玩具って呼ぶのかよ」
表情は相変わらず冷たい。
けれど心の中では――
(今の俺、空港の屋上で優勝インタビューしてる)
クインは隣で、レオが箱を抱えたまま一言も発しないのを見ていた。
……ずっと。
かなり長いこと、ずっと。
(え……気に入らなかった?)
(車種が違う?)
(もしかして、これ小さすぎる?)
クインは笑顔を保ちながら、内心どんどん焦っていく。
初めての“プレゼント”で、
「わあ!」みたいな反応が一切ない。
どうすればいいのか分からなくなって、
笑い続けるべきか、謝るべきか――判断がつかない。
気まずい沈黙が、二人の間に落ちる。
それを見て、クルスが吹き出した。
好きなのに言えないやつ。
相手の反応を読み違えて焦ってるやつ。
クルスはレオの肩を叩き、からかうように言う。
「お前、何照れてんだよ」
「クインの気持ち、ちゃんと受け取れ」
レオは“見られた”みたいにびくっとして、耳まで赤くなる。
「うるせぇ」
「殴るぞ」
クルスは笑いながら、クインに向き直った。
「こいつ、こう見えてめちゃくちゃ照れ屋なんだよ」
「お礼にタピオカ奢る。俺からの“ありがとう”ってことで」
「タピオカ?」
クインの目が一気に輝く。
「本当ですか、兄さん!」
「行こう」
クルスはクインの手を軽く引いた。
「あっちに店あるはず」
数歩進んだところで、クルスが思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。レオ」
レオはF1模型を爆弾みたいに抱えている。
「……何だ」
「それ、車に持っていくついでにさ」
クルスが、荷物の山を指差した。
「これも全部、積んどいて」
沈黙が、一秒。
レオの表情が、
“嬉しいのを隠してる顔”から、“殺意”へ一気に切り替わった。
「……このクソ野郎」
「人の心、あるのか?」
「プレゼント渡したからって、何でも命令できると思うなよ!!」
クルスは完全に無視して、クインを連れて歩き出す。
引っ張られながらも、クインは不安そうに振り返った。
「大丈夫ですか? 人、呼びましょうか……」
「大丈夫大丈夫」
クルスは平然と言う。
「こいつ、洗濯機を丸ごと担いで階段で最上階まで運んだことあるから」
「……は?」
レオが固まる。
「これくらい余裕だろ」
クインはレオの方へ向き直り、優しく言った。
「戻ってきたら、お水買ってあげますね」
レオは荷物の山のど真ん中に立ち尽くし、二人の背中が遠ざかるのを見送った。
「……あいつら」
「どっちも同じくらい面倒くせぇ」
――――
タピオカ屋は、クインが思ったより混んでいた。
クルスが注文を終えて戻ってきて、クインに番号札を渡す。
「はい、これ」
「受け取ったら、レオのとこ持ってってやって」
「はい」
「俺、車もう一台取ってくる」
クルスは早口で言った。
「一台じゃ三人と荷物が無理だ」
「レオのとこで待ってて」
「分かりました」
クルスが去る。
クインは番号札を見て、カウンターの表示を確認した。
……少し待ちそうだ。
椅子に座り、ほっと息を吐いた――その瞬間。
ポケットの中で、スマホが震えた。
クインはびくっとする。
画面に表示された名前を見た途端、身体が固まった。
――父。
(早すぎる……)
クインは慎重に動いていたはずだった。
夏期講習に申し込んで。
代わりに通ってくれる人まで雇って。
定期的に連絡も入れて、両親にはロンドンにいると思わせていた。
それなのに。
完璧だったはずの計画が、
地面に足をつけた瞬間に崩れていく。
着信は止まらない。
クインは画面を、判決書みたいに見つめた。
(終わった……)
まだ味わってもいない自由な夏が、
指の隙間から消えていく。
クインは通話ボタンを押した。
「プリンセス」
父の声は、穏やかで、温かい。
「帰国するなら、どうして言わなかったんだ?」
「お父さん、寂しいよ」
クインは唇を噛む。
「……お父様、どうして分かったんですか」
「プリンセス」
父は小さく笑った。
「お前のことなら、何でも分かる」
クインの背中に、冷たい汗が伝う。
父は天気の話でもするみたいな口調で続けた。
「次にもし、お父さんに隠れて帰国したいなら」
一拍。
「……お父さんのカードで支払わないことだね」
「……」
クインは、完全に固まった。
そんなバレ方、想像していなかった。
普段あまり使わないカードを選んだ。
小さな支払いなら、父は気にしないと思っていた。
――甘かった。
「お父様……」
クインは恐る恐る言う。
「このこと、お母様には……まだ?」
「今のところはね」
父が答える。
「でも、お母さんが知ったら怒るだろう」
クインは唾を飲み込む。
「……本当に、家に戻るつもりはないのかい?」
数秒の沈黙。
そしてクインは、小さく、でもはっきり言った。
「……戻りたくありません」
向こうも、しばらく黙った。
やがて、軽い息。
「そうか」
父は笑う。
「分かってたよ。プリンセスも反抗期だ」
クインは瞬きをする。
「いいだろう」
父は続けた。
「秘密にしてあげる」
「……ただし、いつまで守れるかは分からない」
「本当ですか?」
「本当だ」
声が少しだけ厳しくなる。
「その代わり、二人、監視役を付ける」
「二人……?」
クインは目を瞬く。
「レオには会ったね」
父は言った。
「彼が、お前を見ている」
「それともう一人――女の子だ」
「今、そっちに向かっているらしい」
クインの呼吸が止まる。
「……女の子?」
――――
キィィィッ!!
タイヤの悲鳴みたいな急ブレーキ音が、空港前に響いた。
タクシーが大きく切り返し、
まるで警察から逃げているみたいな勢いで駐車場へ突っ込んでくる。
「運転手さん……ゆ、ゆっくり……!」
エリは右へ投げられ、左へぶつかり、
頭の中が洗濯機みたいに回っていた。
喉が詰まる。
胃の奥から、何かがせり上がってくる。
「……吐きそう……」
エリは口元を押さえ、必死に飲み込む。
「もう無理……」
自然の摂理に従おうとした、その瞬間――
キィィィッ!!
タクシーが完全停止。
エリの身体は前に倒れ込み、頭がシートにぶつかった。
「……っぐ」
――終わった。
吐きそうなのを、飲み込んだ。
しかも戻ってきた。
「着いたぞ、お嬢ちゃん」
運転手が振り返って、満面の笑み。
そして、エリの顔を見て固まった。
「……あれ?」
「大丈夫か? お前……」
エリは座席に沈んだまま。
髪はぐしゃぐしゃ。
目は死んでる。
魂がどこかへ旅立っている。
……もう、何も残っていなかった。




