第1話「夜行列車」
車両が、かすかに揺れた。
金属同士が触れ合う音が、一定のリズムを刻む。
それはまるで、言葉にできない何かを抱えた誰かの心臓の鼓動みたいだった。
窓の外には、星がぎっしり詰まった夜空。
まるで銀河そのものが静かに降り注いでいるみたいで、遠くて、綺麗で――思わずため息が出る。
こんな夜なら、本当は。
熱い湯に浸かって、安いワインを一口飲んで、
「今日も疲れたけど、悪くなかったな」なんて、そんなふうに締めくくるはずだった。
……なのに。
私は今、ここにいる。
九時間もかかる夜行列車。
しかも、今朝まで存在すら知らなかった連中と一緒。
全部、あの“仲のいい姉”のおかげだ。
『いつか、全部に感謝する日が来るわよ』
その声が、呪いみたいに頭の中でこだまする。
感謝?
「反抗期が遅れてやってきたお嬢様の監視役」を押し付けられて?
……冗談じゃない。
私は金持ちが嫌いだ。
はっきり言って、心の底から。
金持ちに仕えるか、一日中荷物を運ぶか選べと言われたら、迷わず後者を選ぶ。
考えるまでもない。
私は頬杖をつき、窓の外を流れていく光の帯をぼんやり眺めた。
将来、本当に感謝する日が来るのかは分からない。
でも少なくとも今夜の予定は、全部星屑になった。
「わぁ……これ、変わってるね」
透き通った女の声が、私の思考を引き戻す。
シンフィエロ・クイン。
私が“見張る”ことになった問題のお嬢様は、夜市で買ったばかりの品を嬉しそうに眺めていた。
目を輝かせる様子は、初めて花火を見た子どもみたいだ。
その品物は――
首の折れた人形だった。
どう見ても、八割方は不良品だ。
「……展示会でも開く気か?」
レオが、クインの荷物袋に手を突っ込み、次々と奇妙な物を引きずり出す。
その表情は数秒のうちに、
興味 → 困惑 → キレ寸前、へと変わった。
「朝から俺が運んでる荷物、まだ足りねぇのか!?」
眉を吊り上げ、殺気がはっきりと立ち上る。
私はそっと窓際へ身を寄せた。
今にも人を丸呑みしそうな口から、距離を取るために。
レオは嫌いだけど、この件に関しては同意だ。
あの袋の中身を見る限り、出発時間さえなければ、クインは夜市を丸ごと買い占めていたと思う。
それより理解できないのは――
どうして、あんな短気で口の悪い男が、このお嬢様の護衛なんてやっているのか。
水と油。
本来、交わるはずのない二人だ。
「……このバスボム、三百クラで買ったの? 三十クラのと何が違うの?」
その一言で、空気が一気に冷えた。
マリンが、バスボムを手に取る。
その鋭い視線は、まるで証拠品を吟味する捜査官みたいだった。
彼女の前で無駄遣いをするのは、説教を受けに行くようなものだ。
「あとさ! クイン、これも買ってた!」
ジノがバネ仕掛けみたいに立ち上がる。
細長い箱を掲げ、宝物を見つけた子どもの顔。
「エクストラ版だよ! めっちゃレア!」
……私は固まった。
その瞬間、頭に浮かんだのはひとつだけ。
――どうして、こんな単純な男に期待してたんだろう。
背筋に、冷たいものが走る。
マリンを見ると、案の定。
その瞳の奥で、静かな殺気が燃えていた。
私は何も言わず、できるだけ存在感を消すことにした。
――今日は、もう十分すぎるほど色々あった。
これ以上の“攻撃”は、正直きつい。
ぱらり。
ページをめくる音。
騒ぎから切り離されたように、向かいの窓際でユウが座っていた。
何も言わず、ただ静かに本を読む。
そこだけ、時間の流れが違うみたいだった。
黄色い照明が髪に落ちて、
彼はこの混沌の中の、ひとつの休符みたいに見えた。
私は、改めて全員を見渡す。
外から見れば、私たちはきっと。
本来、同じ場所にいるはずのない人間の集まりだ。
今朝までは――
互いの存在すら知らなかった。
車両が、ゆるく傾く。
私は背もたれに頭を預け、鉄の音に記憶を委ねた。
『エリ。あの子を、ちゃんと見てあげて』
姉の声が、はっきりと蘇る。
『その代わり、私も約束は守るから』
――約束。
それは、私に一番嫌いなことをさせる理由で。
この列車に乗る理由で。
そして……ずっと追い続けてきたもの。
首の折れた人形を抱え、満足そうに微笑むクインを見て、私は悟った。
この先は、きっと楽じゃない。
でも。
何事にも、代償はある。
私は、それを払うと決めた。
強い疲労が押し寄せる。
周囲の声が、ノイズのように遠ざかっていく。
私はテーブルに突っ伏し、長く息を吐いた。
そして、もう一度窓の外を見る。
星の静けさが、ざわついた心を少しだけ落ち着かせてくれた。
「……たぶん、全部は今朝から始まったんだ」
その時は、まだ知らなかった。
あの瞬間が――
私の夏の軌道を、わずかに狂わせた小さな分岐点だったことを。




