4-6 怪物(前編)
数日後、梅雨が開けた。じめっとした空気が吹き飛ばされたと思ったら、今度は巨大な白熱電球が目の前に吊り下げられているかのような日差しが僕らに降り注ぐようになった。
風は吹いているのだけど、その風自体に暴力的までの熱量をもっていて、それこそドライヤーで熱風を浴びせられているかのようだ。
来週の週末からいよいよインターハイが始まる。今日は甲府市の緑ヶ丘競技場で山梨陸上競技協会主催の陸上の記録会がある。学校の練習だと、正確なタイムの計測ができない。この記録会では社会人や大学生などの高いレベルの人たちが参加している。身体に刺激を入れられる。
緑ヶ丘競技場は、甲府盆地の北側を東西に横切る中央線を渡った先にある。盆地の北側を縁取る山のすぐ麓にあって、時計の針でいうと十一時の方向だ。
僕らの住む中央市は六時の方向なので、盆地の南北に向き合うような位置関係だ。少しだけ登ったところにあるので富士山は中央市で見るよりも全体が見える。
近くには武田信玄の居館跡である武田神社だったり、弘法大師ゆかりの湯村温泉などがあったりする。
古い競技場なので、タータンも正直あまり良くない。コンクリートでできた吹きさらしの二十段ほどの観客席がホームストレート側に申しわけ程度にあるぐらいだ。
それでも小学生の頃から通って、ここで練習をしてきた、僕を鍛え上げてくれた場所だ。何度も負けて立ち上がってきた。
テレビの取材がやってきていた。今度は山梨のローカルテレビ局ではなくて、全国放送のテレビ局だった。どうやら、県記録を塗り替えていて実業団レベルの高校生がいるということで話題にしたいらしい。
僕のアップからテレビクルーがカメラを回し始めた。ディレクターの人は、「いつものとおりアップをしていていいですよ」と、いっていたくせに、「つぎは、この方向にもう一回走ってみてください」とか「富士山をバックにお願いします」とか注文をつけてきたりする。
注目されるのは嫌いじゃない。みんなからの期待の視線が足元にまとわりつくような、そんな感覚も僕にはある。それはプレッシャーというものなのか、はたまた別の要因によるものなのか、今まで感じたことのない感覚だった。
今までは勝つことは既定路線だったようにも思う。周囲からの期待。
——それと、負けることに対する、恐怖。
認めたくはないけど、“ほどほどに生きていく人生“にとって、必要がなかったそんな感情が、インターハイが近づくにつれて、僕の中で首をもたげて笑っているように思えた。
土曜日の記録会なのに、なぜか大和は競技場に来て僕のアップと取材を、スタンドから眺めていた。
昨日、帰りがけに取材があることを伝えたら、
「すごいじゃん。イプコム星人の能力を全国に伝えられるチャンスだね」
と目を丸くして喜んでいた。
トラックの内側にある芝生の脇で、雨宮もアップをしている。雨宮春風も高校の陸上部は引退したが、記録会には参加している。幅跳びを専門にしている彼女だが、もとは100mの選手だったこともあって、以前から年に数回ある、この記録会には参加していたのだった。
「三笠くん、すごい注目だね。全国放送だって」
この暑さだ。アップだけでも体中から汗が噴き出してくる。雨宮の額や体にはキラキラと汗が輝いている。
「ああ、こんなに注目されたら、さすがに緊張するよ」
僕は遠くに見える富士山を眺めながら、心にもないことを口にして苦笑した。
「絶対、インターハイも勝てるって。全国をびっくりさせよう」
手を前に組んで、ぴょこんと飛び跳ねて応援する、雨宮がまぶしくて僕はやっぱり目をそらしたままだった。
そのとき、僕と雨宮を見つめているような視線を感じた。競技場の南側は、小さな屋根のないスタンドになっていて、その向こうには遠くに富士山が霞んでいる。観客はそこでアップをしている僕らや、競技をしている選手たちを見ている。さらにテレビのクルーもいるので視線を感じることは不思議ではない。それでもいいようのない不快感。背中を冷たい汗が伝い落ちた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「あ、そろそろ、召集だね。わたし行かなきゃ。遼も頑張ってるからわたしもがんばろっと」
そう言って、笑顔になった雨宮だったが、さっきとは変わって少し表情が硬くなったようだった。いつもの記録会だけど、雨宮も久しぶりの100mだから、緊張してるのかな、なんて考えたりもしながら、後ろ姿を見送っていた。西から吹き付ける熱風が僕の心を波立スたせた。
「オン、ユア、マーク」
スピーカーから声が響く。
雨宮が髪をかきあげて、二回ほど軽くジャンプをした。後ろを気にするように一回振り向いて、スターティングブロックに足をかけた。一回、大きく息を吐いて、クラウチングの姿勢をとった。
「セット」
静寂が訪れた。
スタート音がなる。
選手たちが一斉に走り出す。
蹴り出す脚。振り抜く腕。
リズミカルに足音が響く。
全てがキレイなフォームだった。
風を味方につけた雨宮は大学生の選手に少し遅れてゴールした。
あと、女子が一組走り終わると、男子のスタートだ。僕は二組目なので、スタートの後ろで準備をする。どこからかテレビクルーがやってきて僕の表情の撮影をはじめた。
スタート音。
一組目の選手が走り出した。僕の視界から選手たちがどんどん遠ざかっていく。
カメラはゴールの向こうから僕に狙いをすましている。もう一台は芝生の向こうから富士山が映る角度で撮っているようだ。
周りの選手も撮られてるだけあって緊張しているかもしれない。
「オン、ユア、マーク」
いつもの通り、二回ジャンプする。足首をくるくる回してから、首を左右に振って、体を沈める。クラウチングの姿勢になる。これが僕のルーティーン。
「セット」
地面の一点を見つめる。神経が研ぎ澄まされる。
スタート音が響いた。
筋肉が収縮し、爆発的な力でスターティングブロックを押し出す。
跳ね返る力を利用して、身体を前に投げ出す。
スパイクが地面をしっかりと噛み込むと、僕の体に前に進む力に変換された。
最初は低い姿勢から、一、ニ、三、四、五!
顔を上げる。
加速を終えたら、そのままスピードに乗っていく。
他の選手の足音は、僕の後ろに置いてきた。
ゴールラインが迫ってきた。
あと一歩、二歩。いや、もう一歩。
ゴールラインを通過した。
スタンドからどよめきが上がった。
10秒50
タイマーの数字が止まっている。
自己ベストではない。
だけど、全国トップクラスのタイム。
アナウンスが流れる。
「追い風、2.2m」
西から吹き付ける熱風が僕の背中を押していた。
スピードを落としながら、僕は天を仰ぎ、両手で顔を覆った。
たった十数秒たらずの無酸素運動に対して、全身の筋肉がオーバーヒートしないように、汗がふきだしている。
横隔膜は新鮮な空気を求めて暴れるように上下し、肺の中では酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出す。
心臓が全身に血液を届けるために、僕の内側からありったけの力で殴りつけるように叩き続けている。
びしゃびしゃになった両手を、ごまかすように腰にあてて、カメラの前を通り過ぎてスタンドの方向へと歩いていった。
見ていた人たちは、追い風参考記録とはいえ、10秒50のスピードを体感できて、興奮して手を叩いている。
一緒に走った社会人と思われる人が、“やっぱり速いね“と話しかけてくる。
——全然速くない
僕の中の細胞ひとつひとつが僕に訴えかけている。
もっと、行けるはずだろう。
なんで、行かなかったんだ。
そんなことを言うわりには、もっと酸素をくれ、今は休ませてくれ、と泣き言をもらす。
わがままは、僕の身体なのだろうか。
それとも、僕自身なのか。
スタンドの方に目をやると、観客席の一番上によく見た顔が座っていた。
大和だった。
笑顔で手を叩く観客の中、一人だけ固い表情で僕の方を見つめていた。
あの無邪気で屈託のない僕にだけ見せる表情ではない。
心の奥深くに何かを溜め込んで、そして押し殺したような。
——さっきの視線
雨宮と話していたときに向けられた、冷たい、背筋を刺すような視線。
大和が僕に。
そんなわけない。
思わず、その視線から目をそらした。
僕は、心に浮かんだ考えを打ち消すように、頭を振った。
心臓の鼓動は身体が平穏を取り戻すにつれて静かになっていくのに反比例するように、胸のざわつきだけが増えていった。
競技場の裏にある山から聞こえる蝉の声が、やけに耳障りだった。




