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4-3 ぬくぬく君事件(前編)

 七月の上旬、甲府盆地の梅雨はジメジメとしていて、それでいて気温が高い。滞留した湿気を海風で吹き飛ばしてくれればいいのに、山で囲まれているので空気は澱んで動かない。雨が降れば湿っぽいし、太陽が出れば蒸し風呂になる。

 そんな、どこにも逃げ場のない空気の中で、期末テストの成績が返ってきた。


「おいおい、遼は数学九十六点って。また、宇宙人すぎるだろ」

「物理何点だった?九十点?やば」


 別に見せようとしているわけでもないのに、周りのやつらは僕の成績を確認していく。進学コースは難関の大学受験を意識しているので、お互いの成績を気にするのはいつものことだ。だけど、成績なんて、自分のが良ければ大学には合格できるのだから、人の成績を気にするのなんてナンセンスだ。


 そう思いながら、クラスのやつと今回の成績について話していた。

 今日は、ざわつく教室の中に、いつもと違う空気を感じた。


「うお、田中、すげー」

 そんな声がチラリと耳に入ってきた。

 あのグレイのコスプレで、少しクラスでも立ち位置ができた大和の答案が返ってきたようだ。教室、左後ろ窓側のいつもの席に答案を持った大和が戻っていく。

 チラリと答案が見えた。

 ——100

 そう書かれていたように見えた。


 僕はもう一回、見ようと目を見開いたが、もう見えなかった。

 少し、呼吸が速くなって、心拍が上がった。


 いつもはぼっちだったはずの大和は、前の席のやつと恥ずかしそうに笑いながら喋っている。


 教室の真ん中の僕の席からは、その会話はよく聞こえない。大和に点数を聞きにいこうという気には、どうしてもならなかった。


「おい、遼ってば。お前、東大受けんの?早慶?医学部?」

「ん?ああ」

「だよな、いいよな。お前、余裕っしょ」

 友達の方に向き直り、気のない返事をした。


 大和の笑顔が頭から離れなかった。自分でもわからないところで、大和と自分の間から何かが這い出してくる、そんな感覚がしていた。

 それは嫉妬なのか、焦りなのか、あるいはもっと別の、名前をつけることができない別の感情なのか。

 わからないまま、僕は友達と笑顔で会話を続けていた。


 午後のホームルームが終わり、下校する時間になった。僕以外の三年生の陸上部員はもう引退しているので、僕だけ少しドリルとスタートの練習をして少し早めに切り上げた。

 練習着から制服に着替えても、ワイシャツにじっとりと汗が染み込んで張り付いたままだった。運動後にはあまりに不快な湿気が、体からなかなか離れてくれない。

 ——大和はもう少し図書室で勉強をしていくんだろうな。

 そう考えて、自転車置き場に向かった。

 リュックの中に入れてある鍵を探したが、奥の方に入り込んでしまってなかなか取れない。

 イライラしながら、地面に置いたリュックの中を探っていた。

 

 リュックの中のプリントがグシャグシャになる。

「クソっ」

 つい口走ってしまった。

「おっ、遼。珍しいじゃん」

 

 声をかけられて、ビクッとした。鍵の感触が手の先に伝わった。

 

 同じクラスの古屋が後ろに立っていた。碧陽祭では実行委員としてクラスをまとめてくれた。今日テストの成績が返ってきたが、あまり芳しい成績ではなかったと言っていた。しゃがんだ僕からすると、背の高い古屋がさらに大きく巨人のように見えた。

 

 僕はリュックの奥にあった鍵をようやく取り出すことができた。


「……びっくりした」

「そんなに驚かせた?」

 古屋は申し訳なさそうな顔になって少し笑った。


「ああ、いつもはこの時間に帰ることないもんな」

「いや、そうじゃなくて、遼がそんなにイライラしてるのって珍しいなって思って」

「そう?」

 取り繕うように答えた。


「そうだよ。遼っていっつも、なんかクールで、たいていのことには動じないっていうか。イライラとかしない人間なのかと思っていたから」

「そりゃあ、こんな暑さで、自転車の鍵が見つからなかったら誰だってイライラするでしょ」

 自分がそんな風にみられているというのが意外だった。


「あー、もしかして、田中に数学と物理の点数抜かれたのが応えてんじゃないの?」

「え?そうなの。知らなかった」

 知らなかったわけではないけど、そんなふりをしていた。


「そうだよ、田中、数学と物理どっちとも100点だったって聞いたぞ」

 古屋が言い放った何気ないそんな情報は、僕の心の奥に深く沈んでいくように感じた。

「へえ……そうなんだ」


「まあ、お前もありえない点数だから、別に気にしないと思うけどさ。でもさ、俺も驚いたよ。田中が満点って……」


「まあ、そうだよな」

 そう返しながら、鍵を握る手に知らないうちに力が入っていた。


「田中って、小学校のときの“ぬくぬく君事件“のときから、なんか変になったよな……」

 古屋がつぶやいた。


「“ぬくぬく君事件“?何それ?」

 大和のキーホルダーとあの羊のマスコットキャラクターの悲しそうな目が頭に浮かんで、僕は聞き返した。


「あれ、遼は知らなかったか。そうか、あれ小三の時だから、遼が引っ越してくる前の事件だもんな」

 古屋はそういって、話題から避けるように自分の自転車を探し始めた。

 風が駐輪場の金網を揺らした。


「おい、なんだよ“ぬくぬく君事件“って」

 僕は、先にいこうとする古屋の肩をつかんで引き留めた。

 古屋は少し困惑したような顔で振り返った。


「最近、遼と田中って仲良いじゃん。それでさ、知ってると思ってた……。お、俺の自転車あった、あった」

 古屋は少し目線をそらしながら、自分の自転車を見つけた。


「いや、知らないから。その“事件“のこと教えろよ」

 何か、自分の中でも知りたいのか知りたくない気持ちなのか、相反する感情が入り混じって語気が強くなった。

 

 古屋の肩に置いた手に力が入る。

 鍵を握ったままの僕の手元をチラリとみてから、古屋は声を落として口を開いた。

「いや、そんな、たいした事件ってもんじゃないけど……。あいつ小三のときに、“ぬくぬく君“をめぐってさ。ちょっとした事件があったんだよ。」

 そこまで言って、古屋は教室のある方向に目をやった。


「“ぬくぬく君“ってさ。あいつが一番大切にしていたやつだったんだ。」


 握った自転車のハンドルは湿り気を帯びていた。へばりついたワイシャツにこれでもかというぐらい汗が染み出してくるのがわかった。

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