チューリングの見た夢 第2話:想像上の機械
作者のかつをです。
第2話をお届けします。
少し理論的で難しい話に聞こえるかもしれませんが、これはコンピュータ科学の根幹をなす、非常に重要なアイデアの誕生の瞬間です。
一人の天才の頭の中だけで行われた思考実験が、いかにして現実の世界を変える力を持ったのか。そのスケールを感じていただければ幸いです。
ケンブリッジ大学。
青年になったアラン・チューリングは、その才能を遺憾なく発揮していた。
しかし、彼の心は、常にアカデミズムの中心から少しだけ外れた場所にあった。
彼が取り憑かれていたのは、当時の数学界が直面していた、一つの巨大な壁。
ドイツの偉大な数学者ダフィット・ヒルベルトが提唱した、「決定問題(Entscheidungsproblem)」だ。
それは、一見するとシンプルな問いだった。
「いかなる数学的な命題が与えられても、それが『真』であるか『偽』であるかを、有限の手順で判定できるような、万能のアルゴリズムは存在するか?」
もしそんなアルゴリズムがあれば、数学のすべての問題は、機械的な作業だけで解けることになる。
それは、数学という学問の終わりを意味するかもしれない、究極の問いだった。
多くの数学者たちが、この問題に正面から挑み、そして敗れ去っていた。
チューリングのアプローチは、根本から違っていた。
彼は、まず問いそのものを分解した。
「そもそも、『有限の手順』とは何か? 『計算』とは、一体どういう行為を指すのか?」
彼は、この最も根源的な問いに答えるため、一つの思考実験を始める。
彼は、想像の中に、一台の奇妙な機械を描いた。
その機械には、無限の長さを持つ一本の「テープ」が取り付けられている。
テープはマス目に区切られ、それぞれのマスには記号を書き込んだり、消したりできる。
そして、テープの上を動く「ヘッド」がある。
ヘッドは、テープの記号を読み取り、内部の状態と、あらかじめ与えられた「ルール表」に従って、記号を書き換え、テープの右か左に一マス移動する。
それだけの、非常にシンプルな機械だ。
しかし、チューリングはこの単純なモデルで、人間が紙と鉛筆で行う、あらゆる「計算」を模倣できることを証明した。
これが、のちに「チューリング・マシン」と呼ばれることになる、革命的なアイデアだった。
彼はさらに思考を進める。
この機械は、ルール表さえ書き換えれば、足し算も、微分方程式も、どんな計算でも実行できる。
では、その「ルール表」自体を、テープに記号として書き込んでおけばどうだろうか。
その瞬間、奇跡が起きた。
機械は、もはや特定の計算しかできない専用機ではなくなる。
テープに書かれた「プログラム」を読み込むことで、ありとあらゆる計算を実行できる「万能機」へと変貌するのだ。
それは、紙と鉛筆だけで行われた、静かな革命だった。
彼は、この「万能チューリング・マシン」の概念を用いて、「決定問題」に対する最終的な答え――すなわち、万能のアルゴリズムは存在しない、ということを証明する。
しかし、その副産物として彼が生み出したこの想像上の機械こそが、現代に存在するすべてのコンピュータ――あなたのスマートフォンやノートパソコン――の、理論的な設計図そのものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「チューリング・マシン」は、物理的に作られたわけではありません。あくまで、計算とは何かを定義するための理論モデルです。しかし、現代のコンピュータがやっていることも、突き詰めれば「メモリから命令を読み込み、実行し、結果を書き出す」という、このモデルの繰り返しに他なりません。
さて、純粋な数学の世界で偉大な功績をあげたチューリング。
しかし、時代は彼に、静かな研究生活を許しませんでした。
次回、「ブレッチリー・パークへの招集」。
第二次世界大戦の嵐が、彼の運命を大きく変えることになります。
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