コンピュータに「言葉」を教えた軍人 第5話:誰のためのコンピュータか
作者のかつをです。
第三章の第5話をお届けします。
ホッパーの戦いの舞台は、大学の研究室から、実利を重んじるビジネスの世界へ。
技術そのものだけでなく、その価値を社会に認めさせることの難しさ。これは、現代の私たちにも通じるテーマかもしれませんね。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
グレース・ホッパーのコンパイラは、着実に進化を遂げていた。
彼女が開発した「B-0」、後の「FLOW-MATIC」と呼ばれるコンパイラは、ついに、完全な英語の文章に近い形で、プログラムを記述できるまでになっていた。
例えば、こんな風に。
INPUT INVENTORY FILE A; PRICE FILE B;
COMPARE PRODUCT-NO (A) WITH PRODUCT-NO (B);
IF GREATER, GO TO OPERATION 10;
IF LESS, GO TO OPERATION 5;
IF EQUAL, GO TO OPERATION 2.
数学の知識がない人間でも、これが何をやろうとしているのか、直感的に理解できる。
在庫ファイルと価格ファイルを読み込み、製品番号を比較しているのだ、と。
彼女は、このFLOW-MATICを手に、新たな戦場へと乗り込んでいった。
それは、学術の世界ではなく、ビジネスの世界だった。
当時の企業は、給与計算や在庫管理といった大量のデータを、パンチカードを使った旧式の機械で、非効率に処理していた。
コンピュータは、そうしたビジネスの現場にこそ、革命をもたらすはずだ。
彼女は、確信していた。
しかし、ビジネスの世界の壁は、学者の世界の壁よりも、さらに厚く、高かった。
「コンピュータ? あんなものは、研究室の連中が使う、高価なオモチャだろう」
「ウチの仕事は、そんな数字の羅列で管理できるほど、単純じゃない」
経営者たちは、口を揃えてそう言った。
彼らにとって、コンピュータは、得体の知れない、自分たちの仕事とは無関係な存在だったのだ。
ホッパーは、粘り強く説いて回った。
「見てください。このプログラムは、英語が読めれば、誰にでも理解できます」
「これを使えば、あなた方の会社の経理担当者が、自分たちでプログラムを書けるようになるのです」
彼女が訴えたかったのは、単なる業務の効率化ではなかった。
コンピュータという力を、一部の専門家の手から、現場で働く人々の手に解放すること。
いわば、コンピュータの「民主化」だ。
誰のためのコンピュータか。
それは、数学者や科学者だけのものではない。
給料を計算する経理部員のためのものであり、在庫を管理する倉庫係のためのものであり、未来のあらゆるビジネスマンのためのものなのだ。
その信念が、彼女を突き動かしていた。
風向きが、少しずつ変わり始める。
彼女の情熱と、FLOW-MATICの分かりやすさが、何人かの先進的な経営者の心を、動かし始めたのだ。
コンピュータは、ビジネスの世界を変えるかもしれない。
そんな予感が、産業界に、静かに広がり始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ホッパーがFLOW-MATICのデモンストレーションをした際、「女性でも使えるほど簡単だ」という意図で、わざと若い女性に操作をさせた、という逸話も残っています。彼女は、非常に優れたプレゼンターでもあったようです。
さて、ビジネス界にも、その可能性が認知され始めた「人間が読めるプログラム」。
しかし、ここから、さらに大きな問題が立ちふさがります。
次回、「COBOLの誕生」。
コンピュータ業界全体を巻き込んだ、標準化への、長く困難な道のりが始まります。
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