コンピュータに「言葉」を教えた軍人 第4話:コンパイラという翻訳機
作者のかつをです。
第三章、第4話です。
ついに、コンピュータの歴史を語る上で欠かせない「コンパイラ」という概念が誕生しました。
これがなければ、現代の私たちのIT社会は、まったく違う形になっていたかもしれません。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
周囲が冷ややかな視線を送る中、グレース・ホッパーはたった一人で自らのアイデアを練り上げていった。
彼女がやろうとしていることは、前例のない、まったく新しい挑戦だった。
もし、プログラマーが「ADD(足せ)」「SUBTRACT(引け)」といった、人間が読んで理解できる英単語で命令を書いたとする。
そして、その命令のリストをコンピュータ自身に読み込ませる。
コンピュータは、そのリストを元に、自分自身で機械が理解できる「0」と「1」の羅列(機械語)を、自動的に生成するのだ。
つまり、コンピュータ自身に、「翻訳作業」をやらせる。
この魔法のような仕組みを、彼女は「コンパイラ」と名付けた。
Compile――編集するという意味の言葉から取った名前だ。
それは、革命的な発想だった。
これまでプログラムとは、人間がゼロから一行一行、機械語で書き上げるものだった。
しかしコンパイラがあれば、プログラムがプログラムを自動的に生み出すことができるようになる。
人間の仕事は、より抽象的で創造的な部分に集中できるようになるはずだ。
彼女は、このアイデアを元に最初のコンパイラ「A-0」の開発に着手した。
それは、まだ非常に原始的なものだった。
あらかじめ用意されたサブルーチン(小さなプログラムの部品)の番号を並べると、それに対応する機械語のコードを自動的に連結してくれる、という程度の機能しかない。
しかし、それは偉大な第一歩だった。
彼女が上司にその成果をデモンストレーションした時のことだ。
彼女が書いた人間が読める命令リストが、機械によって見事な機械語プログラムに変換されていく。
それを見た上司は、信じられないという顔でこう言った。
「君は、機械を動かしているだけじゃないか。前から、そのコードは機械の中にあったんだろう?」
ホッパーは、呆れてしまった。
彼女の上司には、コンピュータ自身がプログラムを「生成した」という事実が、どうしても理解できなかったのだ。
「コンピュータは計算しかできない」という、あまりにも強固な先入観が、目の前で起きている革命の価値を見えなくさせていた。
しかし、彼女は少しも落胆しなかった。
むしろ、闘志を燃やした。
まだ誰も見ていない未来が、自分にははっきりと見えている。
ならば、それを現実のものとして証明してみせるだけだ。
鉄の巨人に、人間の言葉を教える。
彼女の戦いは、まだ始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
初期のコンパイラは、翻訳作業に非常に時間がかかりました。ホッパーは、コンパイラが動いている間、暇つぶしにコーヒーを飲んだり編み物をしたりしていたそうです。そんな逸話からも、彼女の粘り強さが伝わってきますね。
さて、最初のコンパイラは完成したものの、周囲の理解は得られない。
彼女の目は、すでにその先のビジョンを見据えていました。
次回、「誰のためのコンピュータか」。
彼女の戦いは、学術の世界からより広いビジネスの世界へと向かっていきます。
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