コンピュータに「言葉」を教えた軍人 第2話:蛾が遺した「バグ」
作者のかつをです。
第三章の第2話をお届けします。
コンピュータの歴史における、非常に有名な「バグ」の逸話です。
第一章でも少し触れましたが、グレース・ホッパーとMark II(物語の都合上、Mark Iとしています)での出来事が、実物の証拠が残っている最も有名な事例とされています。
※この物語は史実を基にしたフィクションです。登場する人物、団体、事件などの描写は、物語を構成するための創作であり、事実と異なる場合があります。
Mark Iは、気難しい巨人だった。
常にどこかが故障し、計算は頻繁に停止した。
グレース・ホッパーの仕事は、この巨人をなだめすかし、複雑な計算を正確に実行させること。
それは、ENIACの六人の女性たちがそうであったように、終わりの見えない、根気のいる作業だった。
計算が止まるたび、彼女とチームの仲間たちは、巨大な機械の裏側に回り込み、膨大な回路図と睨めっこしながら、原因を探らなければならない。
接触不良か、リレーの故障か。
あるいは、プログラムを記述した紙テープの穿孔ミスか。
問題解決には、数時間、時には丸一日を要することも珍しくなかった。
1947年9月9日。
その日も、Mark Iは、突如として計算を停止した。
「またか……」
チームの誰もが、うんざりした表情で顔を見合わせる。
彼らは、いつものように、トラブルシューティングを開始した。
しかし、今回はいつもと様子が違った。
どこを調べても、機械的な故障は見当たらない。プログラムにも、論理的なミスはないはずだ。
「原因が、まったく分からない……」
全員が途方に暮れていた、その時だった。
ホッパーが、リレー回路のパネルの一つを、じっと見つめていた。
「ねえ、あそこ。何か挟まっているように見えない?」
彼女が指さした先を、仲間たちが覗き込む。
すると、リレーの接点の間に、一匹の小さな「蛾」が挟まり、感電して死んでいるのが見つかった。
光と熱に誘われて、機械の内部に迷い込んでしまったのだろう。
この小さな侵入者が、回路をショートさせ、巨大なコンピュータを沈黙させていたのだ。
「……虫、ね」
ホッパーは、ピンセットを手に、慎重にその蛾の死骸を取り除いた。
そして、その日の作業日誌に、こう記録を残す。
まず、蛾をセロハンテープで丁寧に貼り付けた。
そして、その横に、こう書き添えた。
“First actual case of bug being found.”
(実際にバグが発見された、最初の事例)
これが、プログラムの不具合を「バグ」、それを取り除く作業を「デバッグ」と呼ぶようになった、直接のきっかけとされる出来事だった。
もちろん、それ以前から、技術者の間では、機械の欠陥を「バグ」と呼ぶ隠語は存在した。
しかし、彼女が残したこのユーモアあふれる日誌が、その言葉をコンピュータの世界に定着させる、決定的な役割を果たしたのだ。
彼女は、この小さな事件の中から、一つの本質を見抜いていた。
コンピュータとの戦いは、壮大な理論だけでなく、こうした地道で、時には滑稽でさえある、現実的な問題との戦いなのだ、と。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ホッパーが貼り付けた蛾の死骸と、彼女の直筆のメモが書かれた日誌は、現在、アメリカ国立歴史博物館に、本物が保管されています。まさに、歴史の証人ですね。
さて、日々の「デバッグ」作業に追われるホッパー。
しかし、彼女の頭の中では、もっと根源的な問題意識が、芽生え始めていました。
次回、「『0と1』からの解放」。
彼女の、偉大な挑戦が、ここから始まります。
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