コンピュータ科学の原点 第10話:彼が見た夢の続き(終)
作者のかつをです。
第二章の最終話です。
悲劇的な死を遂げたチューリングが、いかにして名誉を回復し、現代の私たちに繋がっているのか。
その再生の物語を描きました。
彼の人生を通じて、何かを感じ取っていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
アラン・チューリングの死後、その名前は、歴史の闇に長く、深く、葬り去られた。
ブレッチリー・パークでの偉業は、国家機密の壁に阻まれ、語られることはない。
コンピュータ科学における功績は、専門家だけが知る、難解な論文の中に眠っていた。
彼に残されたのは、「不名誉な罪で有罪となった、風変わりな数学者」という、歪められたレッテルだけだった。
しかし、時代は、ゆっくりと、しかし確実に、変わっていった。
1970年代、ブレッチリー・パークの機密が、少しずつ解除され始めた。
初めて、エニグマ解読という、驚くべき物語の断片が、世に知られるようになったのだ。
歴史家たちは、そこに、アラン・チューリングという、忘れられた天才の名前を発見した。
コンピュータが、世界中に普及し始めた。
プログラマーたちは、自分たちの仕事の理論的な源流を遡り、必ず、「チューリング・マシン」という、聖典のような論文に行き着いた。
そして、社会の価値観もまた、変わっていった。
かつて「罪」とされた彼の愛の形が、人間の多様性の一つとして、認められる時代がやってきたのだ。
彼を再評価しようという声が、日に日に高まっていった。
そして、2009年。
イギリスのゴードン・ブラウン首相は、政府として、異例の公式声明を発表する。
「アラン・チューリングは、その時代の法律によって、非人道的な扱いを受けました。彼が、どれほど偉大な貢献をしたかを思うと、この扱いは、さらに不公平なものに感じられます。英国政府を代表し、心から謝罪します。私たちは、彼に、あまりにも大きな借りがある」
2013年、エリザベス女王は、彼の死後恩赦を決定。
彼の「罪」は、ついに、公式に取り消された。
2021年、イングランド銀行は、新しい50ポンド紙幣の肖像に、アラン・チューリングを選んだ。
かつて犯罪者として扱われた男が、国の「顔」となったのだ。
歴史は、半世紀以上の時を経て、ようやく彼に、正当な敬意を払った。
……現代。
スマートフォンの中で、AIアシスタントが、私たちの問いに、人間のように自然な言葉で答える。
自動運転の車が、複雑な交通状況を判断し、自らハンドルを切る。
それらすべての根源には、かつて、一人の孤独な天才が見た、壮大な夢がある。
思考とは何か。知性とは何か。
機械は、人間のように、考えることができるのか。
その問いのバトンは、今、現代を生きる私たちに、確かに手渡されている。
アラン・チューリングの物語は、終わってはいない。
彼が見た夢の続きを、私たちは、生きているのだから。
(第二章:チューリングの見た夢 ~コンピュータ科学の原点~ 了)
第二章「チューリングの見た夢」を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
彼の物語は、2014年に「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」として映画化され、世界中で大きな反響を呼びました。興味を持たれた方は、ぜひご覧になってみてください。
さて、コンピュータの理論的な父の物語を描いた次は、いよいよ、その魂を一般大衆に解放する、実践の物語が始まります。
次回から、新章が始まります。
第三章:FORTRANを編んだ女 ~コンピュータに「言葉」を教えた軍人~
コンピュータに「言葉」を与え、その力をビジネスの世界にまで広げた、偉大な女性軍人グレース・ホッパーの物語です。
引き続き、この壮大なIT創世記の旅にお付き合いいただけると嬉しいです。
ブックマークや評価で応援していただけると、第三章の執筆も頑張れます!
それでは、また新たな物語でお会いしましょう。




