コンピュータ科学の原点 第9話:青酸カリと齧られた林檎
作者のかつをです。
第9話。彼の最期の物語です。
チューリングの死は、自殺、事故、他殺と、様々な説があり、今なお議論が続いています。
この物語では、その謎そのものを提示する形で、彼の孤独な最期を描きました。
一人の天才の光が、あまりにも理不尽な形で消されてしまった悲しみを、感じていただければと思います。
ホルモン療法は、アラン・チューリングの心と身体を、内側から破壊していった。
女性ホルモンの投与により、彼の身体は、徐々に女性化していった。
かつて、マラソンを趣味としていた彼の肉体から、筋肉は削ぎ落とされ、思考力も、集中力も、以前のようには働かなくなった。
何よりも辛かったのは、精神的な屈辱だった。
彼は、犯罪者としての烙印を押されたことで、国家安全保障上の「リスク」と見なされるようになった。
かつて彼が中心にいた政府のコンピュータ開発プロジェクトからも、静かに排除されていった。
彼の知性は、もはや国にとって、宝ではなく、危険物でしかなかったのだ。
彼の周りから、人々が去っていく。
大学の同僚たちは、彼を腫物のように扱い、避けるようになった。
彼は、再び、少年時代のような、深い孤独の中に突き落とされた。
それでも、彼は研究を諦めなかった。
自宅の小さな研究室で、彼は「形態形成」――ひまわりの種の配列や、動物の縞模様といった、自然界のパターンが、いかにして数学的な法則から生まれるのか、という研究に没頭していた。
それは、彼の最後の抵抗だったのかもしれない。
非論理的で、混沌とした人間の社会から逃れ、再び、美しく秩序だった数式の宇宙へと、身を投じることで、彼はかろうじて精神の均衡を保っていた。
1954年6月8日。
家政婦が、いつものように彼の寝室を訪れると、ベッドサイドのテーブルの上に、一口だけ齧られたリンゴが、ぽつんと置かれていた。
そして、ベッドの上で、アラン・チューリングは、冷たくなっていた。
41歳。あまりにも早すぎる死だった。
彼の傍らからは、青酸カリの瓶が発見された。
警察の公式な見解は、自殺。
齧られたリンゴに、彼自身が青酸カリを塗り、それを食べたのだと。
しかし、その死には、多くの謎が残された。
彼は、死の直前まで、次々と新しい研究計画を立て、友人たちと陽気に将来を語り合っていた。
実験で青酸カリを使うことが多かった彼が、誤ってそれを口にしてしまった、単なる事故だったのではないか。
あるいは――
彼の頭の中にある国家機密が、外国に漏れることを恐れた諜報機関による、暗殺だったのではないか。
真相は、今も闇の中だ。
確かなことは、一つだけ。
コンピュータ科学の父、人工知能の予言者、そして戦争を終わらせた英雄は、誰にも看取られることなく、たった一人で、その生涯を終えた。
彼の机の上には、未完の研究ノートが、静かに残されているだけだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
齧られたリンゴが死の現場にあったことから、アップル社のロゴは、チューリングへの敬意を表したものだ、という有名な都市伝説があります。スティーブ・ジョブズ自身はこれを否定していますが、そうであってほしい、と思わせる何かがありますね。
さて、悲劇的な最期を遂げたチューリング。
しかし、彼の物語は、ここで終わりではありません。
次回、「彼が見た夢の続き(終)」。
彼の死後、その功績がいかにして再評価され、現代の私たちに繋がっているのか。第二章、感動の最終話です。
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