コンピュータ科学の原点 第8話:許されざる罪
作者のかつをです。
第8話をお届けします。
今回は、読んでいて非常に辛く、憤りを感じる展開かもしれません。
しかし、これはチューリングの人生を語る上で、決して避けては通れない、実際に起きた出来事です。
一個人の尊厳が、いかに時代の価値観によって、無慈悲に踏みにじられてしまったか。その理不尽さを描きました。
アラン・チューリングは、同性愛者だった。
彼にとって、それは、右利きであることや、青い目が好きであることと同じくらい、自然な自身のアイデンティティの一部だった。
しかし、1950年代のイギリスにおいて、それは「罪」だった。
法律で固く禁じられ、社会から激しく糾弾される、許されざる行為と見なされていた。
彼は、その秘密を、ずっと心の奥底に隠して生きてきた。
ブレッチリー・パークの同僚にも、大学の仲間にも、誰にも打ち明けることはなかった。
彼の孤独は、そこから来ていたのかもしれない。
常に、本当の自分を偽り続けなければならないという、終わりのない緊張感。
悲劇は、ある些細な事件から始まった。
1952年、チューリングの自宅に泥棒が入った。
彼は、警察に通報したが、それが間違いの始まりだった。
取り調べの中で、彼は、犯人が自分の恋人(男性)の知り合いであることを、うっかり漏らしてしまったのだ。
その瞬間、警察の捜査の矛先は、窃盗事件から、チューリング自身の私生活へと、大きく方向転換した。
彼は、「重大なわいせつ行為」の容疑で逮捕された。
かつて、国の英雄として、首相チャーチルから直接労いの言葉を受けた男が、今や、みすぼらしい独房の中で、犯罪者として尋問を受けていた。
彼は、嘘をつくことも、自分を偽ることもできなかった。
尋問に対し、彼は自らの性的指向を、率直に、そして誠実に認めた。
悪びれる様子も、後悔の念も示さなかった。
自分は何も悪いことはしていない、と信じていたからだ。
裁判は、すぐに結審した。
判決は、有罪。
彼に提示された選択肢は、二つだった。
一つは、刑務所に収監されること。
もう一つは、保護観察下に置かれ、同性愛を「治療」するための、ホルモン療法を受けること。
もし彼が刑務所に入れば、研究者としてのキャリアは完全に絶たれてしまう。
彼は、苦渋の末、後者を選んだ。
それは、「化学的去勢」と呼ばれる、非人道的な治療だった。
女性ホルモンを定期的に投与され、性的欲動を強制的に抑制するというものだ。
戦争を終わらせ、何百万もの命を救った男への、国家からの「褒章」は、これだった。
彼の知性ではなく、彼の愛の形が、彼を断罪したのだ。
彼の頭脳は、国家最高の機密を守るために利用された。
そして、彼の身体は、社会の偏見を守るために、破壊されようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
当時のイギリスでは、同性愛行為は「ヴィクトリア朝のわいせつ法」によって裁かれていました。オスカー・ワイルドなど、多くの著名人も、この法律によって有罪とされています。
さて、非人道的な治療を受け入れざるを得なかったチューリング。
その副作用は、彼の心と身体を、静かに、しかし確実に蝕んでいきました。
次回、「青酸カリと齧られた林檎」。
天才の、あまりにも早すぎる、謎に満ちた最期を描きます。
物語は佳境です。ぜひ最後まで見届けてください。




