コンピュータ科学の原点 第5話:爆弾(Bombe)と呼ばれた機械
作者のかつをです。
第5話をお届けします。
ついに、チューリングのアイデアが形になり、歴史的な暗号解読機「Bombe」が誕生しました。
機械が動き出す瞬間の、興奮と緊張が伝われば幸いです。
この作戦には、多くの女性たちが重要な役割を果たしていたことも、忘れてはならない事実です。
ウィンストン・チャーチルからの鶴の一声は、絶大な効果を発揮した。
「本日より、彼らの要求は最優先事項とせよ!」
首相直々の命令を受け、ブレッチリー・パークの空気は一変した。
チューリングのプロジェクトには、最高の技術者と潤沢な予算が与えられた。
彼の頭の中にあった設計図が、現実の機械として、その姿を現し始める。
数ヶ月後。
ブレッチリー・パークの一室に、巨大な黒い箱が設置された。
高さ2メートル、幅3メートル。正面には、エニグマのローターを模した円盤が何十個も取り付けられている。
内部には、無数の歯車と配線が複雑に絡み合っていた。
これが、チューリングが設計した、高速暗号解読機だ。
機械が起動すると、ローターがけたたましい音を立てて、一斉に回転を始める。
カチ、カチ、カチ、カチ――
そのリズミカルな音は、まるで時を刻む爆弾のようだった。
誰が言ったのか、この機械は、いつしか「Bombe」と呼ばれるようになった。
Bombeの仕事は、チューリングが考案した消去法を、電気の速さで実行することだった。
クリブ(推測される平文)を手がかりに、ありえないローターの設定を、片っ端から検証していく。
そして、論理的な矛盾がない、たった一つの「正解の可能性」を見つけ出すと、Bombeは自動的に回転を停止する。
Bombeの操作は、主にWrens(イギリス婦人海軍部隊)の女性隊員たちが担当した。
彼女たちは重いローターを交換し、複雑な配線を繋ぎ変え、24時間体制でこの巨大な機械と向き合った。
最初の成功は、劇的だった。
ある日の未明、けたたましく回転していたBombeが、ぴたりと動きを止めた。
正解候補が、見つかったのだ。
その設定を元に、女性隊員がエニグマの複製機に暗号文を打ち込むと、意味不明な文字列が、意味のあるドイツ語の文章へと翻訳されていく。
『……Uボート、AM5254地点ニ向ケ、浮上セヨ……』
成功だ。
その瞬間、管制室に歓声が沸き起こった。
ブレッチリー・パークは、ついに、ナチス・ドイツの神経系に侵入する手段を手に入れたのだ。
チューリングは、歓喜の輪から少し離れた場所で、静かにその光景を見ていた。
彼が想像の中で描いた機械が、今、現実の世界で歴史を動かそうとしている。
それは、彼にとって、数学の難問を解いた時と同じ、静かで、しかし至上の喜びの瞬間だった。
彼の頭脳が生み出した「爆弾」は、本物の爆弾よりも雄弁に、戦争の行方を左右する力を持っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
この「Bombe」は、ENIACのような電子計算機ではなく、電気的な仕組みで動く、いわば専用の計算機でした。ブレッチリー・パークでは、最終的に200台以上のBombeが稼働していたと言われています。
さて、ついにエニグマを解読する手段を手に入れたイギリス。
この圧倒的な情報優位は、戦争の行方に、決定的な影響を与えることになります。
次回、「戦争を終わらせた男」。
チューリングの功績が、いかにして連合軍を勝利に導いたのか。しかし、その栄光には、大きな代償が伴いました。
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