コンピュータ科学の原点 第4話:解読不能の暗号エニグマ
作者のかつをです。
第4話をお届けします。
いよいよ、チューリングとエニグマの本格的な戦いが始まりました。
敵である暗号機の仕組みと、それに対するチューリングの独創的なアプローチを、少し詳しく描いてみました。
彼の協調性のなさが、逆に大きな突破口を開くことになります。
ブレッチリー・パークでの生活は、奇妙な二面性を持っていた。
昼間は、プレハブの小屋の中で、国家の命運を左右する極秘任務に没頭する。
夜は、邸宅の食堂で風変わりな天才たちと食事を共にし、時には芝居や音楽会に興じる。
しかし、チューリングは、ここでも輪に溶け込めずにいた。
彼は、協調性というものを決定的に欠いていた。
他の解読者たちが地道な手作業で暗号のパターンを探している間、彼は一人で部屋にこもり、奇妙な数式を書き連ねているだけだった。
周囲は、彼を「変わり者の教授」と呼び、半ば呆れ、半ば尊敬の念を持って遠巻きに見ていた。
彼らの前に立ちはだかる「エニグマ」は、まさに悪魔の発明品だった。
キーボードで文字を打つと、内部にある複数の「ローター(回転盤)」と「プラグボード(配線盤)」の組み合わせによって、別の文字に変換され、ランプが点灯する。
その組み合わせの総数は、天文学的な数字にのぼった。
さらに厄介なことに、キーを一つ打つたびにローターが回転し、暗号のルールそのものが変わってしまう。
そして、そのローターの初期設定は、毎日深夜0時に変更されるのだ。
つまり、たとえその日の設定を解読できたとしても、24時間後にはまたゼロから始めなければならない。
人力での解読は、絶望的だった。
「機械の仕事は、機械にやらせるべきだ」
チューリングは、上官であるデニストン中佐に、繰り返し進言していた。
「手作業で鍵を探すのは、干し草の山から針を探すようなものです。我々は、その干し草の山を一瞬で焼き払うような機械を作るべきなのです」
しかし、戦時下で前例のない巨大な機械を作るための予算と人員を確保するのは、容易ではなかった。
デニストンは、チューリングのアイデアを非現実的だと一蹴した。
チューリングは、諦めなかった。
彼は、エニグマの最大の強みが、同時に最大の弱点であることに気づいていた。
それは、「Aという文字が、A自身に暗号化されることは絶対にない」という、単純なルールだった。
さらに、ドイツ軍は毎日決まった形式で、天気予報や「ハイル・ヒトラー」といった定型文を送信していた。
つまり、暗号文の中に、元の平文が「これであろう」と推測できる箇所が存在するのだ。
もし、クリブが「HEILHITLER」だと仮定する。
そして、暗号文を重ねてみて、元の文字と暗号化後の文字が一致する組み合わせがあれば、それは「ありえない設定」として排除できる。
この地道な消去法を、人間の手ではなく、電気の速さで実行する機械。
チューリングの頭の中には、すでにその設計図が鮮明に描かれていた。
問題は、いかにして、頭の固い上官たちにその価値を認めさせるかだった。
彼は、前代未聞の行動に出る。
ブレッチリー・パークの指揮系統をすべて飛び越え、英国首相ウィンストン・チャーチルに、直接手紙を書き送ったのだ。
「我々には、もっと多くの資源が必要です」と。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
エニグマの解読には、ポーランドの数学者たちが戦前に成し遂げた基礎研究が、非常に重要な役割を果たしました。ブレッチリー・パークの成功は、決してイギリス一国の功績ではなかったのです。
さて、首相にまで直訴するという、常識破りの行動に出たチューリング。
この賭けは、吉と出るか、凶と出るか。
次回、「爆弾(Bombe)と呼ばれた機械」。
ついに、歴史を動かす巨大な暗号解読機が、その姿を現します。
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