君の死の題名
家に帰り着くと台所から母親の声が聞こえた。
今日は母親のほうが早かったみたいだ。
「どこか行ってたの?」
「美味しいデザートを食べに行ってたんだ」
「○○君(母親の知っている友達の名前)と?」
答えることはしなかった。
けどそれは珍しいことではない。母も不思議がることはなかった。
おそらく勝手に“友達と”行ったことになっているのだろう。
―――実際は異性と喫茶店に行っていた。
しかも、その少女は不治の病に冒されている。
僕は彼女の小説を書こうとしている。
もし両親がこの事実を知ったらどう思うだろうか。
「そんな子に育てた覚えは無い」と怒るだろうか。
きっと納得はしてくれないだろう。
僕にはまだ甘さがあった。
自分を愛してくれる人たちに、失望させることを恐れている。
冷蔵庫から牛乳を取り出しコップへ注ぐ。
白すぎる色は僕の罪を責め立てているようで、そのまま口にするのはためらわれた。
せめてもの抵抗にほんの少しだけアイスコーヒーを垂らす。
「今日の学校はどうだった?」
近くで揚げ物を作っている母親は、視線をこちらに向けることなく尋ねた。
「どうだったって普通だよ。
母さんが思っているほど学校は、毎日行事に満ちているわけでもないし、面白い事件が起こることもないんだからさ」
揚げたての唐揚げをひょいっと摘み口に入れる。
母親は小言を言いたげにこちらを睨んだが、言葉になる前に濁った牛乳を片手に自分の部屋へと向かう。
両親仲は良くもなく悪くもない―――きっと普通の家庭なのだろう。
他を知らないから確証はないが。
だが余命幾ばくもない不幸な少女は、そんな“当たり前”の家庭すら手に入れることが出来なかったのだろう。
人生は平等ではない。
幸福も不幸も人によって偏りがある。
彼女を見ていると、それが嫌というほどわかった。
それでも余命わずかな少女には、神様も人並み以上の幸福を与えるべきだと思う。
「……そんなこと、僕が考えるべきではないか」
彼女が死ぬことを誰よりも楽しみにしている、僕なのだから。
自室の扉を少し乱暴に閉めた。
部屋に入るとすぐに机に向かい、中央に鎮座したノートパソコンに電源を入れる。
デスクトップにはワードファイルが無数に散らばっている。
その全てが書きかけであり、書き終わることのない小説モドキ。
―――だから今日、僕は生まれて初めて小説を書く。
主人公は僕。ヒロインは彼女。
約束された悲劇の物語。
すっかり慣れたブラインドタッチで、一心不乱に画面を文字で埋め尽くした。
彼女との出会いとなる部分を書き終わったとき、僕は率直に驚いた。
ここまで綺麗な文章を書けると思わなかったからだ。
自画自賛と思うかもしれないが、本当にそう感じたのだ。
感性が研ぎ澄まされている、とても表現するのだろうか。
小説家になる覚悟を決めたからか。
それとも彼女と関わったからなのか。
あるいは単なる偶然なのか。正確な所はわからない。
だけど―――
この感覚が続くうちに、さっきまでの出来事を書き連ねる。
途中でいくつも誤字脱字に気づいたが、手を止めない。
いつまで続くかわからないこの感覚を、大切にしたかった。
彼女と関わり動かされた僕の感情を、僕が自覚出来ているうちに書き記したかった。
二時間ほど経った。
どうにか感覚が続くうちに、今日までの出来事を書き終えられた。
これほどまでに集中して文章を書いたのは初めてだった。
保存しようとして、初めて小説の題名を決めていなかったことに気づく。
すっかり集中力も切れ、冴えた言葉も出てこない。
時間を置いてもいいのだろうが、書き終えたという余韻があるうちに決めたかった。
そのほうがより良い題名に、より作品になると思ったからだ。
『○○を食べたい』
『余命数ヶ月の少女』
『限りある命の話』
どれもしっくりこない。
それでも以前の僕ならこの中から決めていただろう。
けど今は、もっと相応しい題名を選びたかった。
この小説は、彼女への冥土の土産なのだから。
似た物語をいくつも思い出す。
そこに共通しているのは、ヒロインが必ず死ぬということだった。
救いようのない結末を、読者は承知のうえでページを捲っている。
―――そうか、この小説は『君が死ぬ本』なのか。
ページを捲られる度に病は進行する。
書き手である僕は、読者も、その死をただ見届けるだけの存在。
彼女の死に同情はしても抵抗はしない。……ただの傍観者。
―――タイトルが決まった。
保存を確認し、パソコンを閉じる。
彼女との出会いは想像以上に僕を変えた。
嬉しくもあり―――怖くもあった。
記憶だけが引き継がれ、人格も考え方も変わった自分がいる。
彼女が死ぬ頃には今の自分はいないのかもしれない。
それを成長と呼ぶのか……あるいは洗脳と呼ぶのか。
だがもう戻ることは出来ないのだろう。
何より戻るつもりはない。
僕は引き返すことが嫌いだから。
それから家族と共に夕ご飯を食べ、お風呂に入り、リビングでゆったりしたあと、自室に戻った。
ベッドの上に転がされたスマホは赤く点滅している。
通知は彼女からだった。
―――そういえばラインを交換したな、と思いだす。
『今日は付き合って頂きありがとうございました。
これからもよろしくお願いしますね(アライグマのスタンプ)』。
ご丁寧なお礼のメッセージ。
恋人偽装の為か、それとも彼女自身の人間性なのか。
発想すらなかった僕は、素直に感心した。
ただ問題が一つある。
メッセージが送られたのは十九時。
どうやら小説執筆中には届いていたらしい。
そして現在時刻は二十一時。
―――返信するタイミングを逃した。
文面はどうするべきか。
返信が遅れたことを謝るべきか。
楽しかったことを伝えるべきか。
両方は長すぎるか。
異性にメッセージを送る機会に恵まれなかった僕には、これだけのことでも難題だった。
様々な思考を巡らせ―――数分を掛けてメッセージを送った。
『(初期から入っている、楽しそうなクマのスタンプ)』。
「……」
送信直後に自分でも酷いと思ってしまう。
僕の悪癖の一つに散々悩んだ挙句に、すべて面倒くさくなって投げ出すというものがある。
―――もう少しマシな答えがあっただろうに。
『散々待たせた挙句にそれですか!?』。
全面的に彼女が正しい。
慌てて取ってつけたような定型文を送るも、それにも鋭いツッコミが入る。
何を言っても勝てそうにないので、話題を変えることにした。
『今日までの小説の下書きが書けたよ。
自分で言うのもなんだけど、かなり上手く書けていると思う』。
彼女の依頼でもあるため、報告をしておく。
―――という建前で、本音は上手にかけたことを自慢したかったらしい。
それに対して彼女は『それはよかったですね』と案外そっけない返事で返す。
無論口頭と文章とでは同じ言葉でも受け取る印象が変わるのだが。
どうにも依頼した割に、小説そのものには興味がないように思えた。
―――いや僕が反応の薄さに不満を覚えたから、そう見えただけかもしれない。
忙しかったのか、それとも捉え方の違いなのだろうか。
もしくは返信が遅くなったことを根に持っているのか。
追求して面倒な人だと思われるのも癪なので、今後の予定を尋ねた。
『これからはどうするつもりなの?何か予定はある?』
『しばらくは未定ですね。
夏休みに入らないと大それたことは出来ないですし。
何か小説映えしそうなことを思いついたら連絡しますね。
もちろん先輩がどうしても一緒に居たいと言うならデートぐらいしてあげますよ?』
『了解。何か思いついたら連絡して』
『スルーしないでくださいよ!!』
スマホ越しにツッコむ彼女の顔が目に浮かぶ。
本当に喜怒哀楽の激しい人だ。
小説を書く身としては感情表現が豊かなほうがありがたいが。
―――そうか、小説としてか。
ふいに打ちかけた文字に手が止まる。
このやりとりも数か月先にはもう存在しない。
そう思った瞬間、指先がわずかに止まった。
―――もう後悔はしない。小説家になると決めたのだから。
僕は自分の罪の意識を目を逸らしながら再度画面をタップした。
その後はしばらく他愛のない話をし、一区切りついた所で話を打ち止めた。
彼女からの『おやすみなさい』と書かれたメッセージを確認してから、目を閉じ意識を溶かした。