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人間をやめる理由

気づくと家の前にまでついていた。

思っていたよりもずっと集中していたらしい。


曇天は一日中空を覆い、湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく。

耳を澄ましても、セミの鳴き声が囁くほどわずかに聞こえる程度だった。

明けたはずの梅雨は、未だ夏の勢いを湿っぽく、鈍らせていた。


鞄から鍵を取り出しドアを開ける。

明かりも無い室内は暗く、物音すらも聞こえない。

どうやら母はまだ帰宅していないようだ。

 

乱雑に靴を脱ぎ捨てると、脇目も振らず自分の部屋へと向かった。


部屋の中へ入るとドアを閉め、鍵を閉め、そして深く息を吐く。

ベッドへと倒れ込むと繭のように布団にくるまった。


嫌なこと不安なことがあった時、僕はいつもそうする。

布団を一枚隔て、現実世界を拒絶する。外界から心を護るために。


自分の吐いた息は外気に触れることはなく、布団の中で滞留する。

少し経てば布団の中は重く湿った空気で満たされる。

自分の一部ともいえる空気を体の中で循環させる。


ここは僕しかいない世界。

だからこそ世間には言えない自分の気持ちを吐き出すことが出来た。


……嬉しかったのだ。

こんなところに最高の題材があったこと、どんな小説よりもリアルで救いようのないシナリオが書ける喜びに。


あの子が特別な病に掛かり、苦しみながら死ぬことに。

彼女が不幸で辛い人生を歩むことが、僕はたまらなく嬉しかった。


同時にそんな自分自身の本心に気づき絶望していた。


僕は自分が優しい人間だと思っていた。

人の嫌がることはせず、困っている人がいればそれなりに手助けをする。

悲しいことがあれば同情するし、非道な行いを見ると嫌な気持ちにだってなる。

そんな人並みの優しさを持っていると。


だけど違った。

実際は人の不幸を喜ぶ外道だと初めて自覚した。

自分が如何に醜い人間であるかを知った。


一般人の仮面をつけたサイコパスであると知ってしまった。

彼女が死ぬ小説を心の底から書きたいと思ってしまった。


理性と本能、二律背反な感情を理解し心は砕けてしまいそうだった。


あの時本能のままに彼女の提案を受け入れなかったのは、両親の育て方が良かったからだ。

両親の愛情のおかげでこれまでこんな醜い感情が表に出ることはなかったのだから。


「有り体に言ってしまえば余命ってヤツですね」

―――あの時の彼女の笑顔が脳裏に浮かんだ。

軽い調子と目の奥の揺れ。それが脳裏に焼き付いて忘れられないでいる。


きっと他にも彼女が幸せになる道はあるはずだ。

今は病気のショックで自暴自棄になっている。

弱っている人間に漬け込むような真似は間違っている。


そうとわかっていても、この最高の題材を手放したくはなかった。

こんなチャンスは二度とない。


目の前に余命を宣告された人間が現れる。小説を書くことを許可してくれる。

―――人生を三度やり直しても起こるとは思えない。


もしかしたら神様がくれたプレゼントなのかもしれない。

小説を書く才能をくれなかった神様が小説家になる為に最後のチャンスをくれたのかもしれない。

同時に悪魔が人生を壊す為に用意した甘い罠だとも思えた。


彼女が死ぬ小説を書くということは、人間をやめる行為に等しい。

助けるでも同情するでもなく、人の命を私利私欲の為に利用するのだから。

人を殺して喜んでいる人間と同罪だ。


そうなれば世間だけでなく、友人や家族からも軽蔑されてしまう。

何より自分自身を許すことができないだろう。


では彼女の提案を断り、正攻法で小説家になるか。

―――無理だ。自分に才能がないことは僕が一番よく知っている。

何より今覚悟しなければ、結局夢を見るだけで行動しない人間に成り下がる。

これ以上のチャンスなんて起きるはずないのだから。


最早何が正しいのかわからない。

もしくは最初から正解などないのかもしれない。

ある種の思考実験なのだろう。


五人を見殺しにするか、一人を殺すか。

必ず何かを失うという前提の基に何を選ぶか。そういう問題なのだ。


結局は2択のシンプルな問題だ。

問題は自分がどうありたいかだけの。


批難を覚悟で小説を書き人間であることをやめるか。

それとも人間として生きるかわりに小説家になることを諦めるか。

生きるべきか、死ぬべきか。ただそれだけの問題だ。


思考し続けていると脳みそから甘ったるい疲労感が襲ってくる。

知恵熱に近い感覚だろうか。このまま目を閉じれば眠ってしまうのだろう。


一瞬だけ視界が暗転したように思えた。

眠ったのか、それとも単に真っ暗闇の世界だからそう感じたのか。


しかし脳が整理されたのか、普段使われない記憶の引き出しから、とある言葉を思い出した。


『あの配色に必要な材料と分量を知れるなら、私は左腕を神に捧げたっていい』


小説の参考にと読んだ本で、何故だか印象に残った言葉だった。

ある絵画の配色が現代では再現出来ないことを知り嘆いたセリフ。

彼は最高の芸術を作りあげる為なら、絵を書くのに必要な右手を除いてなんだって犠牲にする覚悟があると言った。


「必ず死ぬ病気か…」


僕は覚悟を決めた。または誘惑に負け本能に従ったとも言える。


どちらにしても彼女の小説を書くことを決めた。

これから死にゆく悲劇の少女の小説を。


ふと家族のことを考えた。

これから先、両親にもきっと迷惑を掛ける。


殺人犯の親として非難を受ける。

どういう育て方をしたのかと石を投げられる。

愛してくれた両親の想いを裏切り、人生を滅茶苦茶にしてしまう。


だとしても僕は小説家になりたいと思った。

最高の題材で最高の小説を書きたいと思ってしまった。

彼女が苦しみ死ぬ瞬間を自分の小説にしたい。

紛れもない僕の本心を受け入れ、理性を追いやった。


僕は彼女が死ぬまで隣に居続ける。

最愛の恋人ではなく、狂った小説家として。


僕は小説を書き終わることで彼女を殺す。

僕らの関係とはそういうものなのだ。


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