最高な悲劇、最悪な現実
「それで先輩、どうですか?面白い小説になると思いませんか?」
彼女は無邪気にそう尋ねた。
世間とはズレた彼女の価値観に悪寒が走る。
どうして自分の病気を……身体のことをそんなにも楽しげに話せるのか。
僕にはは理解すら出来ない。
だからこそ聞かざるを得なかった。受けるか否か判断するために。
そして―――。
「君は何のためにこんな提案をするんだ。
まさか僕を小説家にさせる為に、自分の身を差し出したいなんていう聖人君主様なわけじゃないだろ?」
皮肉をぶつけたが、彼女はそれまた楽しそうに笑った。
その笑顔が何よりも不気味だった。
目の前にいる生物が、悪魔や妖怪の類ではないかと疑ってしまうほどに。
「そんなわけないじゃないですか。これは私の我儘です。
自分の夢を叶えるのに先輩がちょっと都合が良さそうだったから声を掛けただけです」
清々しいほどあっさり白状した。
それは白状しても僕が会話を続けることを確信しているのだろう。
―――実際彼女の読みは正しい。僕はまだこの場を立ち去れずにいた。
「それで肝心の君の夢って何なのさ。
余命いくばくも無い少女が、出来損ないの小説家見習いに一体何をお願いしたいんだ」
そう質問したものの答えは予想出来ていた。だがそれでも尋ねなければならなかった。
敷かれたレールの上を真っすぐに進むように。小説を途中で読み飛ばさないように。
一般人の推測ではなく、不治の病に苦しむ彼女の口から聞かなければ。
でなければ―――僕の好奇心は満たされない。
「私の夢は―――小説のヒロインになることです。そして死ぬ前にそんな小説を読むことです。
決して病気が治ることの無い悲劇のヒロイン。
苦しみ、藻掻き、化け物に成り果てながら必ず死んでしまう、そんなヒロイン。
読者は私に同情しながら、そして自分でなくてよかったと安心しながら、この小説を読むんです。
それは冥土の土産としては最高ではありませんか?」
「…」
そう語る彼女の姿は、まるで白馬の王子様でも待つような夢見る少女のようだった。
だが口に出た言葉は狂気じみた現実。
物語と現実の境が曖昧であり、一歩間違えれば平気で人を殺しかねない、そんな危うさがあった。
物語の主人公になりたい気持ちはわかる。僕だって妄想する。
テロリストを華麗に撃退したり、美少女に囲まれた学園生活を送ったり、異世界に転生して無双したり―――。
だがそれはあくまで妄想だ。
現実の病に蝕まれている彼女がするべきではない。
妄想が現実に影響を与えてはいけないのだ、絶対に。
説得しようと口を開きかけたとき、彼女は追いうちをかけるように言葉を重ねた。
「私の病気は完治することは決してありません。明日にでも発作が起こるかもしれません。突然倒れるかもしれません。手足が動かなくなり一人で生きていけなくなります。
肌が荒れ、髪が抜け落ち、最後には記憶も失って―――最後は化け物に成り果て死んでしまうんです」
彼女の口から語られる症状を想像し胸が締め付けられる。
神様がいるとしたら、なんで彼女にここまでキツくあたるのだろうか。
―――だが彼女が伝えたいのは別のことだった。
「先輩はそんな小説を書いてみたいんですよね?」
「…」
僕は無言のまま彼女を睨みつけた。
その様子に彼女はまた嬉しそうにこちらを見つめ返した。
事実だった。そして彼女が何故僕を選んだのか理解できた。
彼女の読んだネタ帳には僕なりに面白い小説の条件を書いていた。
『読者の感情を揺さぶること』『結末を悲劇で終わらせること』
ハッピーエンドではいけない。すぐに忘れられてしまう。
心臓を突き刺すような悲劇は、読者にトラウマを植え付け、同情し、心に深く刻み込まれる。
そして『もしかしたら』なんていう希望を考えさせる。
そんな物語が書きたかった。そんな不幸が僕は欲しかった。
彼女の現状は、まさに僕にとって“理想的な素材”だった。
実在する人間を書くのだ。
才能の無い僕だったとしてもまともな小説になるだろう。
小説家になりたいか。彼女が手紙に書いた言葉の意味を理解した。
もしこの小説を書ききることが出来たら僕は小説家になれるだろう。
逆に言えば、この提案を断れば僕の才能では一生小説家になることは出来ない。
「何も悩む必要はないと思います。
先輩は私の小説を書きたい。私は書かれたい。
誰も損をしない、幸せな提案だと思いますよ」
誰も不幸にならない、幸せな提案。確かにそうだ。
それでも―――
「人の命を犠牲にして作られる小説があって良いはずがない。
悲劇は小説の中だけであるべきだし、現実はハッピーエンドを目指すべきだ」
声が自然と大きくなった。
説教じみていると自覚している。無責任な言葉だとわかっている。
それでも伝えずにはいられなかった。
彼女はムスッと唇を尖らせた。
「ハッピーエンドにするために、小説を書いて欲しいんですよ。
小説を書いて貰うことが私の夢です。ハッピーエンドの条件です。
それとも不幸な少女の願いを無下にするんですか?」
そう言われてしまうと返す言葉に困窮しまう。
僕の価値観は間違っていないはずなのに、彼女には届かない。
「どうせ放っておいても死ぬ命です。先輩は何も気に病むことはないんですよ?
外野がうるさいのなら、私が黙らせます。私が誓約書でも何でも書いてあげます。
誰にも文句は言わせません」
その言葉には強い決意が込められていたと思う。
なにが彼女をそこまで―――。
そして次の言葉こそ、僕にとって決定的な物だった。
「それに―――これほど良い条件、一生無いと思いますよ」
彼女の言う通りだろう。
小説を書かなかったからと言っても、彼女の病気が治るわけじゃない。
もちろん書いたからといって病気が進行するわけでも。
そして今後の人生でこれほどの転機が訪れる保証はない。
本当に小説家になりたいのならば、彼女の申し出を受けるべきだった。
だが、それでも―――
「病で苦しむ人間の小説を書くことは、見世物にする行為だ。
救うことも手を差し伸べることも励ますこともせずに、遠巻きで笑っているような奴らと同じだ。それは人殺しと変わらない。
僕は人間でいたい。人を殺してまで小説家になりたくない」
それだけを告げ、踵を返す。これ以上彼女と会話をしてはいけない。
でなければ―――
「さようなら、先輩。良い返事をお待ちしていますね」
彼女の嬉しそうな声を背で聞きながら、僕は学校を後にした。