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好きになった人には、すでに“彼女”がいました。でも諦めませんでした

作者: 夜道に桜

最初に惹かれたのは、声だった。


 低くて、透明で、どこか醒めていて。

 感情の起伏が少ないくせに、なぜか一言一言が心に残った。


「これ、間違ってるよ。ギリシャ神話に“グリフォン”は出てこない。あれは中世の創作」


 初対面だった。

 大学の図書館、文学部のゼミ資料を集めていたとき。

 間違って書き写していた俺のノートを、ふいに覗き込んで指摘してきたのが、白鳥先輩だった。


 さらりとした黒髪と、切れ長の目。

 明らかに“浮いてる”雰囲気なのに、それを隠そうともしない。

 その横顔が、やけに印象に残って――


 俺はそれ以来、何度も図書館へ足を運ぶようになった。


 


 白鳥麻衣。文学部三年。


 知的で、美しくて、どこか遠い人。

 最初は、ただ憧れていただけだった。

 けれど、偶然を装って何度か話しかけているうちに、先輩は少しずつ俺のことを覚えてくれた。


「青木くん。相変わらず暇そうね」


「ひ、暇じゃないですよ。先輩がいるとわかってて来てるわけじゃないです」


「ふふ。嘘下手すぎ」


 そんな風に、笑ってくれるようになった。


 名前を呼ばれるたびに、心臓が跳ねた。

 笑ってくれるたびに、どんどん惹かれていった。


 でも――それは全部、罪だった。


 


 先輩には、恋人がいた。


 女の人だった。


 名前は、千早さん。

 先輩と同じゼミにいた別学部の人で、今は外部の編集プロダクションに勤めているらしい。


 俺は偶然、その姿を見かけたことがある。


 図書館の前で、白鳥先輩の手を握っていた。

 細くて白い指先を、千早さんは迷いなく絡め取っていた。


「……帰ろう?」


 優しい声だった。

 微笑む千早さんに、先輩は何も言わず、黙って頷いた。


 俺の存在なんて最初からなかったみたいに、

 二人は自然に、並んで歩いていった。


 


 その夜、眠れなかった。

 何をしてるんだろう、と思った。

 “叶わない”って、わかってたじゃないか。


 でも、それでも。


 


 翌週、ゼミ帰りに、また声をかけた。


「先輩、あの……これ、レポートの参考になるかと思って……」


 差し出したのは、自分のノートだった。

 全然話せなくていい、ただ、少しでも繋がっていたかった。


「ありがとう。……青木くんって、まっすぐだよね」


 そう言って笑う先輩の笑顔が、残酷なくらい優しかった。


「私ね、あの人とは……ずっと一緒にいるつもりなの」


 まるで、俺の気持ちを見透かしたように。

 それでも、拒絶ではなかった。


「だけど、最近ちょっと喧嘩が多くて。価値観の違いっていうか……疲れちゃう時、あるんだ」


 先輩は、誰に言うでもなくそう呟いた。

 俺は、言ってしまった。


「……俺じゃ、駄目ですか?」


 空気が凍る音がした気がした。


 だけど、先輩は逃げなかった。

 むしろ、まっすぐに俺の目を見た。


「駄目よ」


 はっきり言われた。

 けれど、怒っていなかった。

 むしろ、声は震えていた。


「私、ちゃんと恋人がいるの。今でも好きよ。……それでも、寂しくなる夜がある。それを言い訳にして、誰かに甘えるわけにはいかないの」


「……俺は、言い訳でいいです。最初はそれでも。先輩が、本当に疲れた時に、思い出してくれたら」


「そんなこと言って……本気で、誰かを壊すことになったら、どうするの?」


 先輩の声が低くなった。


「俺は……先輩を一番にしたいんです。他の誰かの幸せより、先輩が笑ってくれる方がいい。そんなの間違ってるかもしれないけど、それでも、諦められないです」


 


 沈黙が落ちた。

 先輩は、ただ俯いていた。


 そのまま別れた。

 でも、次の週――


 


 また、会ってくれた。


 


 少しずつ、時間が増えていった。

 白鳥先輩は、彼女と別れていない。

 でも俺に、会うことをやめなかった。


 ――その時点で、もう裏切りは始まっていたのかもしれない。


「……ほんと、懲りないね。青木くんって」


 くすっと笑って、白鳥先輩は俺の差し出したカフェラテを受け取った。

 日曜の午後。キャンパスのラウンジに人気はなく、俺たちは静かな時間を共有していた。


「懲りる理由が見当たらないんですよね」


「私には、あるんだけどな」


 そう言いながらも、先輩はこの場所に来てくれた。

 それだけで、俺の気持ちは救われる。


「千早さんと……うまくいってないんですか?」


 ふと、聞いてみた。


 先輩の手がわずかに止まる。ストローを持つ指先が、一瞬、力を失ったように見えた。


「……彼女は、ずっと変わらない。私のことを大事にしてくれるし、未来のことも考えてくれてる。たぶん、完璧な恋人」


「じゃあ、どうして今日、俺と会ってるんですか」


「……自分でもわからないのよ。どうかしてると思う」


「……先輩がどうかしてるなら、俺はもうとっくにダメです」


「そうね」


 笑った先輩の目の奥に、どこか寂しげなものがにじんでいた。

 俺は続ける。


「先輩にとって俺がどういう存在か、わからない。でも、俺はずっと、先輩のことを考えてます。もっと近づきたいって、ずっと思ってる」


「でも私は、まだ“あの人”のことを……」


 言葉を詰まらせる。


「知ってます。でも、俺は諦めません」


「……誰かの気持ちに踏み込むって、怖いよ。どっちにも、ちゃんと向き合わないといけなくなるから」


「怖いのは、向き合わずに過ぎていくことだと思ってます」


 


 しばらく沈黙が続いた。


 そのあと、先輩はぽつりと呟いた。


「千早がね、最近すごく優しいの。前よりもずっと。たぶん、気づいてるのよ。私の心が、少し揺れてるって」


「……それで、どうするんですか」


「わからない。……でも、わかってる。千早は、私と別れる気なんて一ミリもない。私が何を言っても、きっと“戻ってきて”って笑う」


 その言葉に、ほんの少しだけ、苦しさが混じっていた。


 


 その日の夜。

 俺は、衝動的に千早さんに会いに行った。


 


 大学近くの編集プロダクション。

 退勤後、偶然を装って声をかける。


「……千早さんですか。青木といいます。白鳥先輩のゼミの後輩で」


「……どうも。話は聞いてるわ。よく名前が出てくるもの」


 美しい人だった。

 声も態度も、洗練されていて。笑みの奥に、絶対に崩れない核を持っているようだった。


「先輩の恋人って、あなたなんですよね」


「そうよ」


「……俺、白鳥先輩が好きなんです」


 まっすぐに言った。どんな反応をされてもいいと思ってた。


 けれど千早さんは、まるで曇らない声で言った。


「知ってるわよ」


「えっ」


「目を見れば、だいたいわかるわよ。あなたは、優しいけど、たぶん少し不器用な子」


「……俺のこと、どう思ってますか」


 返ってきたのは、思いもよらない言葉だった。


「麻衣のこと、本気で大切にしてくれるなら……私より先に進めるかもしれないわね」


「……え?」


「でも、私は渡すつもりはないよ。何があっても、ね」


 その瞳には、微塵の迷いもなかった。

 それが、いちばん怖かった。


 


 その夜。


 白鳥先輩から、メッセージが届いた。


「少しだけ、会えない?」


 


 “踏み込んだらもう戻れない”と知っていて、先輩はそれを選んだ。


 だから、今度は俺の番だと思った。



 夜のキャンパスは静かだった。

 図書館裏のベンチは、昼間よりもずっと狭く感じる。

 風が吹くたび、先輩の髪が揺れて、あたりの空気ごと柔らかくするようだった。


 俺は先に来ていて、ベンチに座っていた。

 白鳥先輩は、ゆっくりと歩いてきて、俺の隣に腰を下ろした。


「……寒くない?」


「大丈夫です。先輩は?」


「少しだけ」


 そう言って、先輩は膝の上で手を組む。

 その手が、ほんの少しだけ震えていたのは、寒さのせいだけじゃない気がした。


 


「なんで、俺を呼んだんですか?」


 沈黙が続きそうな気配を破るように、聞いた。

 すると先輩は、遠くを見たまま答えた。


「……わたし、自分の中で言い訳ができなくなってきてるの」


「言い訳?」


「“会うのはたまたま”“話すのは偶然”って、ずっと言い聞かせてた。でも、今日は違う。自分から、あなたを呼んだ」


「……」


「千早と話してても、どこか上の空になる。

 帰り道、スマホを開いて、真っ先に浮かぶ名前が、あなただった」


 その言葉に、俺の心臓が静かに跳ねた。

 でもそれ以上に、先輩の横顔が、どこか苦しそうに見えた。


 


「でも……ごめん。今日、答えを出すために呼んだわけじゃないの」


「じゃあ……」


「ただ、正直になってみたくなっただけ。誰に対してもじゃなくて、自分に」


 


 先輩の肩が、小さくすぼまる。


「千早は、何も言わないの。責めないし、問い詰めない。

 でも、そういう“信じてるよ”って態度が、逆につらくなるときがあるの。

 私を信じてくれてるのに、私はちゃんと応えられてない」


「……でも、先輩は会ってくれた。こうして、目の前にいる。それって、十分すぎるくらい正直じゃないですか?」


「正直すぎて、自分が嫌になる」


 


 そのときだった。


 風が吹いて、先輩の髪が頬にかかった。

 俺は、無意識に手を伸ばして、その髪をそっと指先で払った。


 肌が、ほんのわずかに触れた。


 その瞬間、先輩の肩がびくりと動いた。


 


 俺は、引っ込めようとした手を、やめた。


 代わりに、そのままそっと指を重ねた。

 ただの接触。でも、たったそれだけで息が詰まりそうだった。


「……触れて、いいですか」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。

 だけど、先輩は拒まなかった。むしろ、そっと指先を重ね返してくれた。


「……ほんと、あなたは、優しいね」


「……そんなつもりは」


「ちゃんと、手を伸ばす前に聞いてくれる。

 そういうところが……ずるいくらい、まっすぐ」


 


 指先だけで触れ合っていた手が、少しずつ近づいていく。

 ふたりの距離が、ほんのわずかに縮まった。


 このまま、唇が触れるかもしれない――

 そんな予感が、胸を焦がす。


 


 けれど――届かなかった。


 


 先輩は、そっと目を伏せて、顔を背けた。


「……ごめん。今はまだ、だめ」


「……はい」


「今の私は、誰のものでもない。

 でも、“あなたの方に気持ちが動いている”ことは、もう隠せない」


「隠さなくていいです。全部、見せてください」


 その言葉に、先輩は静かに笑った。

 寂しさと、なにか確かなものが混ざった笑顔だった。


 


 ベンチを立ち、ふたり並んで歩いた帰り道。


 途中、先輩がスマホを取り出して、画面をじっと見つめた。


 内容は見えなかったけど、誰からかはわかっていた。

 画面を閉じると、先輩はそっとつぶやいた。


「……信じてるって、言ってた」


 


 その言葉には、どこか申し訳なさと重たさが滲んでいた。


 俺は何も言わなかった。

 その沈黙ごと、受け止めようと思った。


 


 この気持ちに、まだ名前はない。


 でも、間違いなく“惹かれている”ということだけは、嘘じゃなかった。


月が、やけに白く見えた。


 深夜一時を過ぎているのに、スマホの画面はまだ光り続けていた。

 既読はつかない。返信もない。

 それでも俺は、ただ待ち続けていた。


 ふと、通知音が鳴る。


 ──『今から、会える?』


 白鳥先輩からだった。

 短く、でも迷いのない言葉だった。


 


 それから三十分後、先輩は俺の部屋のチャイムを鳴らした。


 


「……こんな時間にごめん。迷惑だった?」


「……いいえ、むしろ、来てくれてありがとうございます」


 俺は玄関を開けて、先輩を迎え入れる。

 先輩は何も言わず、黙って上がり、ソファに腰を下ろした。


「部屋、落ち着くね。……なんか、あなたっぽい」


「どんなですか、それ」


「ちょっと不器用で、でも……安心する感じ」


 先輩は笑った。どこか疲れているような、でも優しい笑顔だった。


 


 俺は、湯を沸かしてカップにティーバッグを入れる。

 いつもは無口になる時間が、今日は少しだけ騒がしかった。


 何を話せばいいかわからなかった。

 でも先輩は、最初から決めていたようだった。


「……千早に、別れを告げたの」


 その言葉に、身体がかすかに揺れる。


「……本気で、怒られたわ。今まであんな声、聞いたことなかった。

 “どうして?”って、“何が足りなかった?”って」


 先輩の声は震えていなかった。

 むしろ、どこか晴れたような響きがあった。


「でも、答えは言えなかった。“あなたより大切な人ができた”なんて、言えるわけがない」


「……」


「ただ、“自分が自分じゃなくなっていくのが怖かった”って、そう言ったの」


「それって……」


「千早と一緒にいるとね、私はちゃんとしなきゃって思うの。

 強くて、優しくて、賢くて、完璧で。……でも、あなたといるときは、ただの“麻衣”でいられるの」


 それは、あまりにも静かで、あまりにも本音だった。


 


「わたし、ずっと“正しい恋”をしてきた。

 でも、正しさより、あなたが欲しかったの。

 そう思った時点で、もう戻れなかった」


 


 俺は、言葉を飲み込んだまま、先輩の横に座った。


 先輩の目が、俺をまっすぐ捉える。


「ねえ……キス、していい?」


 俺は、黙って頷いた。


 


 唇が触れた。


 それは、何の装飾もない、ただの“はじまり”だった。


 


 触れたまま、先輩が小さく息を吸った。


「ちゃんと好きになっていい?」


「……ずっと、待ってました」


 


 その夜、俺たちはひとつの名前も与えずに、ただ求め合った。


 やさしく、でも確かに、お互いを知っていく。

 手の温度。肌の匂い。吐息のかすれ。


 全部、ただの現実だった。夢ではない。


 


 朝になって、カーテンの隙間から光が差し込んだ。


 隣には、白いシャツを羽織った先輩がいた。


 ベッドの端に座り、髪を結い直していた。

 こちらに気づいて、ふと笑った。


「おはよう。……朝ご飯、作ってみよっか。できるかは、わかんないけど」


 


 その笑顔は、昨日までと少しだけ違っていた。


 誰かのものじゃなく、

 今はもう、俺の隣にある笑顔だった。




 玄関のドアが閉まる音がして、白鳥先輩はゆっくりと部屋に入ってきた。

 何も言わず、ただ深く息を吐いて靴を脱ぐ。

 その動作ひとつひとつに、重みがあった。


「……おかえり」


 そう言って、俺は小さな湯飲みにお茶を淹れた。

 先輩は黙って受け取り、ソファに腰を下ろした。


「会ってきたんですね」


「うん」


「千早さん、何か……言ってましたか」


「色々。泣いてた。怒らなかった。でも、きっと一生、忘れないと思う」


 


 その声には、悲しさも後悔も含まれていなかった。

 ただ、事実を述べているだけだった。


 俺は頷く。


「……そうですよね」


 


 沈黙が落ちた。

 でも、それはもう俺たちにとって、怖いものではなかった。


 


「自分が何をしたか、わかってる」


 先輩は湯飲みを置いて、そう呟いた。


「誰かを傷つけてまで選んだことを、軽くなんか思ってない。

 でも、だからって“後悔したい”とも思わなかった。

 私はただ、あなたのそばにいたかった。

 それだけ」


 


 俺は何も言わなかった。

 ただその横顔を見ていた。


 


 自分のために何かを犠牲にした人間は、きっと一生その選択を背負い続ける。

 でもそれは、罪悪感を抱えて生きるってことじゃない。

 “引き返さないと決めた”というだけのことだ。


 


 俺は静かに、先輩の手を取った。


 


 


 その夜、先輩は俺の部屋に泊まった。


 ベッドの中、重ねた手の温度だけが、言葉よりも深く繋がっていた。

 何も誓わなかった。ただ、そばにいた。


 


 朝、目を覚ましたとき、先輩はカーテンの隙間から差す光を眺めていた。


「晴れてるね」


「……はい」


「……それだけで、今は十分」


 


 


 誰かを泣かせたのは事実だ。

 その涙に何も返せないのも、知っている。


 でも、それでも――


 


 俺は白鳥先輩の手を取った。

 ただ、それだけを選んだ。


 


 それが、俺たちの答えだった。







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