海の微風
本を食べる怪物のお話
書物を食べる怪物というのがいて、それは白澤のように角が生えているという。それが食べるのは専ら生きるためであるが、一つ残念なことは、それが酷く忘れっぽいことだ。だが大抵の書物など退屈この上ないから、怪物にとっては問題なかったかもしれない。
それは牛のような巨体だったので、人里を堂々と歩くことが出来なかったから、捨てられてもう読まれない新聞や古本などを食って過ごしていた。巨躯に相応しい貪欲で、それはとんでもない量の書物を日々消費した。食べる毎に起きる健忘は周囲にも及んでいて、その怪物に食べられた書物は、他人に思い出されることが決して無かった。偶然に同じ内容、同じ言葉で書かれることはあるかもしれないが、食べられたものをもう一度書こうとすると、どうしても思い出せないのである。
ある時怪物が人里の暗がりをのろのろと動いていると、汚れ切った、手帖の紙片を見つけた。そこにはある詩が記されていた。若き詩人が自由との戯れに残した、出版されたことの無い詩だったそうだ。怪物は大層その詩を気に入った。大きな手で小さな手帖を恐る恐るめくってみると、それはなんと詩集であり、いくつもの詩篇が収められていた。怪物はそれをすぐには食べないで、取っておくことにしたそうだ。足りない頭と文盲を必死に駆動させ、それは一つの対策を思いついた。食べる前にそれの写しを取って、その後で原典を食べれば、美味と詩的感嘆をどちらも失わずにおくことが出来る。早速怪物は写しを取り始めたが、牛用の筆などは無いので、石をいくつも持ってきて、それに爪で以て文字を刻みつけた。分量と石の運搬によって、百日もかかって全ての詩篇の写しを取り終えた。怪物は、いざ原典の詩集を一飲みにしてしまおうとそれを前にした。
甘美な文章というものの味を全く知らなかったので、怪物は高揚し、その大口に手帖を落として飲み込んだ。果たしてそれは予想を裏切らぬ美味で、忘れ難い味をしていた。存分に後味を噛みしめ、さあ今度はどんな詩的美があったっけかと石の方へ振り返ろうとした。しかし所詮動物の知恵が運命を迂回出来るはずも無く、写しを取った石は、突風によって砕けて塵になってしまった。怪物は悲しんで、読み込んだ記憶を頼りに詩を再度書き直したが、穴あきの無様な文字配列が完成しただけだった。しかし味を忘れることは出来なかったので、怪物は以前よりも食べる量が増えたという。
素敵なロースト・ビーフを人間は楽しむことが出来るが、動物はそうもいかないらしい。