人工天国 J.G.Fに
不釣り合いな程幸せなお話
最早失われたのではないかと長らく思っていた、しかし昨日も同じように見ていた女性の横顔を、私は飽きることなく見つめていた。園冶たかという女性は、テラスに身をもたれて、海鳥が波間に啼く快晴の下、銀の星屑のような海を見ていた。小食から来る痩せ型は、生が消え入りそうな程細かったが、非力である以外はいたって健康であった。確かに健康であるので、肌の弾力、指を沈ませられるぐらいには付いている脂肪、いきいきと浮かび上がる血管の数々、指先、腕、丸みを帯びた体中の連なり達、それらはいつまでも私を平和な中に落としておくのだった。物憂げな目つきで海を眺めていた彼女は、その茶色がかった長髪をかすかに揺らしながら私に振り返る。「飽きないの?」と彼女は言った。「飽きないよ」と私は言った。「昨日も、その前の日も、暇さえあれば私のことを眺めてるわ」
「どんな時でだって眺めていたいさ」
「前も言ったけど変な趣味よ、それ」
「君以外の女性を眺めることは無いから、大丈夫だよ」歯の浮くような気味の悪い台詞を言った、と私は後悔するが、たかの困ったような微笑、身内にだけ向けられる優しい嘲りを前にしては私もまた困ったように微笑するしか無かった。やがて私たちは静かに笑い、「変なの」と彼女は言った。私はこの一瞬間に、何かどうしようもない運命的な苦痛の兆しを見た気がしたが、やがて波に攫われていった。
そこは海辺に張り出した小さな展望台のような場所だった。小奇麗に整えられたコンクリートが陽炎を反射しながら、海から遠ざかる小さな町までの道を示していた。たかと私は並んで歩き出した。展望台を降りて、私たちは海辺に沿って作られた並木道を歩いた。深緑の屋根からは日差しが和らいで滲みだしてきて、虫食いのように、地面に伸びた日陰と奇妙な対照を描く。私たちは待ち望んだ速度で、即ちゆっくりと歩いていた。私は町の本屋のことを話していた。「店主がまた本を買い付けに町まで行ったそうなんだが。そこでラディゲの詩集を買ってきたそうだ。今度にでも寄ってみようか」
「ドルジェル伯の方も読んだことがないね、そう言えば」
「粗筋だけ読んで毛嫌いしていたが、そっちも読むかなあ……本屋の近くには喫茶店があったね、そこにも寄ろうよ。パンケーキが美味しいから」
「いいねえ」別に私はラディゲに興味を持っている訳でも、パンケーキを食べたいわけでも無かった。私は兎に角理由を付けて、たかと二人で出歩きたいだけだった。以前は地方の山奥だとか不夜の都会だとかに出かけていたものだが、たかの体調不良によってそれらは自粛せざるを得なくなり、体調が万全となるまで療養することになっていた。だが来るべき旅行の日々に備えて、こうした近場での外出を最近始めたのである。今日の散歩も、その一環だった。私はこの静謐な生活を特に嫌ってはいなかったが、たかがしばしば退屈になるので、それを何とか打開できないかと模索してもいた。
優れた芸術的感性を持つたかは、しかし奢侈好きでもあった。化粧品や服飾に明るく、しばしばそれらを買い漁った。私はそれらによく付いて行き、彼女が嬉々として服を選んで着こなすのをよく見ていたものだった。それだけで一日は無くなりかねない程だったから、それができぬ今は、退屈となっても仕方が無いものではあった。しかし代わりに私は文学を教えたり、互いに大学で学んできた学問などで語り合う時を設けたりした。それと散歩ぐらいしか、私にできることは無かったが、彼女はやはり喜んでくれているのだ、と私は確信している。今もその目に憂鬱な兆しは抜けないが、それは生来のものであることを、以前に確認したからである。そう結論を得るのに、随分の労力を費やしたが。
楽園のような日々への感謝を心に唱えながら、並木道を抜けた。日差しが強くなっているから、私たちは帰宅することにした。緩やかな坂を下りながら、我々は住宅街の端を行く通りを歩いた。そこは既に住宅街特有の無音を備えており、多少の蝉の音の他は、時折起こる車や人の声以外、目立つ音は何も無かった。「静かだよねえ」
「そうだね。五月蠅い方が好きだったりするかい?」
「うーん、そうかも。でもこういう静かなのも、偶には必要だよ。休憩もしておかなきゃ、活動できない」本当に静かだったが、私はこの日何とは無い不安を抱えていた。幸福な日々に異を唱える不安ではない、虫の報せのようなものを。
そしてその報せは、一部当たっていたと思われる。家に向かうために曲がる角の前に、奇妙な人影を見つけたからだ。それはずっと私たちの目に入っていた。道の真ん中にぼけっと突っ立って、ぴくりとも動かない人間がいた。それだけであれば気にするには足りないが、私たちがいざ角を曲がろうとした時、その人間は振り返った。それは仮面を付けていた。それは真っ白で、顔全体を覆っており、白の上には曲線三つだけからなる単純な笑顔が、でかでかと描かれていた。私は咄嗟にたかの肩を掴んで素早く角を曲がり、そのまま早足に家に向かい始めた。不審者だと思っためである。そして私の想像力が、あらゆるシナリオを瞬時に生み出し、自らの死やたかの死といった究極的な妄想までも生成する。たかも、不安がっていた。「今、変な人いたね……」
「うん。少し急ごうか」こちらが不審者だと思われかねない程の頻度で後ろを振り返って仮面の人物を警戒しながら、家まで向かった。そして無事に家に到着し、家に入ってすぐさま鍵を閉めた。後になって、門の鍵も下ろした。「何か、お面付けてたね」
「不審者だな」
「見つけた瞬間、すごい顔だったよ。この世の終わりみたいな顔してた」くすくす笑いながら、もしかしたら降りかかっていたかもしれぬ身の危険も顧みないでたかが言った。「どう考えても危ない奴だよ。ああいうのは本当に、速く逃げるのが一番なんだ」
「うん。そうだよね」その後は直ぐ仮面の人物のことは忘れて、たかは休息のため二階に上がり、私は読書を始めた。昼過ぎになってから私は本を閉じて、洗濯物を取り込み、アイロンをかけて畳み、しまうために二階に上がってついでにたかの様子を見ることにした。彼女は隔月で取り寄せているファッション誌を呼んでいた。箪笥に畳んだ服を詰めながら、「お元気?」と私は尋ねた。「元気は元気だけど、頭はふわふわする。動き回るのはしんどいかも」と、私たちの長期外出を妨げている症状について話した。何度か医者には連れて行ったが、原因は分からず、療養とだけ言われているので、それに従っている。「ん。分かった。後二時間ぐらいでご飯ね」
「献立は?」
「豆腐で何か作るよ」
「わあい」儚げなたかの声を背に、私は一階の書斎に降りて、夕食を作り始める時間までもうしばらく読書に耽った。
読書の間も、料理の間も、その後の夕食の間も、私はしばしばフラッシュバックのように不安感を覚え、あの仮面の人物について、次第に彼が何か破滅的な、運命的な物を私たちにもたらし、永遠に苦しめてしまうのではないかというパラノイアじみた空想を育て始めていた。それを察したのか、肉豆腐の中の糸こんにゃくをつつくたかが言った。「昼のことまだ心配してるの?」
「え、分かるの?」と私が間の抜けた声を出すと、たかは微笑んで言った。「顔に出過ぎだよ。昼の時もそうだったけど、餌を取られた子犬みたいな顔してるもの。どんなに鈍感でも分かるよ」お茶を一口、たかは飲んだ。「ほんと、怖がりだよねえ。心配性ってレベルじゃないよ。怖がり過ぎだよ。大丈夫だって。殺されるかもーとか思ってるかもしんないけど、本当に私たちを殺そうとする奴があんな白昼堂々出歩くわけないでしょ」
「……気の狂った奴だったらどうしようと思って」
「大丈夫だってー!」私が恐れているのはたかを失うことであって、私自身が死ぬことではない。私が失うことを恐れている当のものに慰められる状況に、私は何か奇妙なものを感じてはいたが、それでも私は彼女の優しさに縋るしかできなかった。「大丈夫だろうか」
「そんなもんよ」
「いや、やっぱり駄目だ。明日ちょうど近所の集まりがあるから、そこで聞いてくるよ」
「まあ、それは好きにしたら。でもあんまり心配し過ぎないでね。貴方不安がるとすーぐ体調崩すんだから。そんなに心配なら、しばらく私は家にいるよ。足も疲れてるし。それならいい?」私はやはり惨めな子犬のように頷くしかしなかった。たかに心配事を作りたくない一心で、私は不安感を押し込めた。
次の日の近所の集まりで聞いてきたことには、最近あの仮面の人物はよく目撃されているそうで、“笑う人”と呼ばれていた。そしてそれは複数体いるようだった。しかし名が体を表しているのか、“笑う人”は笑う仮面を付けている以外あまり目立った行動が無かった。私が見たように通りの真ん中でぼんやり立っているのが殆どで、近くに寄っても何もしないばかりか、近くで見つめていても気付く素振りが無かったという証言もある。しかし一方で、“笑う人”に急に怒鳴られたという人物もいた。体を乗り出しながら、凄まじい声量で、しかも人間とは思えぬ獣のような怒鳴り声を出すというのだ。しかしそれも、それ以上のことは無いようだった。声に驚いて逃げ出すと、“笑う人”は追いかけるでもなく、姿勢を解いてまた立っているだけの存在に戻るのだそうだ。吃驚させられる以外は、特に害はなさそうだったが、やはり私は近づくのはよした方が良いと考えていた。その日家に帰るとたかの体調が良くなく、微熱があった。彼女を休ませて解熱剤を飲ませ、しばらく熱が下がるまで私も買い出し以外の外出を控えることにした。
微熱が出てから二日目のこと、私は起きてからたか用の病人食を作り、たかが寝付くのを確認してから一人で朝食を取った。たかとの会話が無いといつも以上に静かで、それ以上に孤独だった。家事を済ませて昼食を取りながら、居間から窓を眺めていた。通りには人が居なかった。そこに“笑う人”が通りかかった。私は椅子から転げ落ちそうな程驚き、体の中身が一気に収縮する緊張を感じた。私は獣のような目つきで“笑う人”のことを目で追った。表の通りを“笑う人”は歩いていく。少し猫背気味で、肩を大げさに左右に揺らしながら、昔見たカートゥーンのような足の動かし方で歩いて行く。動いている“笑う人”を見るのは初めてだったし、近所の噂でも聞かなかった。私は虫が湧いたような嫌な気持ちを持って、落ち着きのないまま読書に戻ろうとした。しかし私はしょっちゅう窓の外を確認し、読書は捗らなかった。
やがてたかの熱も落ち着き、再び外に出たいと要求可能になるぐらいには回復した。私たちは外出し、いつか話していた本屋に赴いた。生憎ラディゲの詩集は他の人に買われていったようだが、代わりに宗教学と物理学についての本をいくつか買い、たかの退屈を凌げる娯楽を増やしてきた。その後近場の喫茶店に入った。冷房の効きすぎた肌寒い店内で、たかはパフェを頼み、私はエスプレッソとパンケーキを頼んだ。二人で分けながらそれらを食べていると、喫茶店の通りの外で、私は再び歩いている“笑う人”を見たのである。瞬時に顔をこわばらせ、思わず目で追うと、たかもそれに気づいた。彼女は止めずに、一緒に“笑う人2を目で追った。”笑う人“は一人の通行人と鉢合わせると、片足をどんと踏み切って通行人に身を乗り出した。硝子越しなので声は聞こえないが、恐らく獣のような例の声で怒鳴ったのだろう。だが通行人は少したじろいだだけで、その後は平静に”笑う人“を通り過ぎて歩いて行った。”笑う人“もまた、しばらくすると姿勢を解いて、また例の奇妙な歩き方で去っていった。「……意外と日常に溶け込んでるね」
「まだ怖いが……」
「大丈夫だよ、あれで大丈夫なら」私は無理にでも、大丈夫なんだろう、と思うことにした。
また次の日から、私たちは小さな散歩をする日々が始まった。しかし私は、どこか熱っぽさを肉体に感じていた。たかの体調不良が伝染性のものではないと医者に言われているから、多分私自身の不調だろう。休む程ではないと判断して、私はたかとの時間を過ごす方を選んだ。時に五感が緩くなるような、気絶する兆候のような、全てが遠くなるような感覚があったが、私は気にしなかった。私が彼女に触れていられる限り、私は彼女との時間を選んだ。
私たちは海辺の並木道を歩いていた。日差しが特に強かったので、日傘と飲み物を持って出かけた。その日たかは雑誌で見かけた新しい着こなしを熱心に話して聞かせてくれた。もっと気兼ねなく外出できるぐらい元気になったら、買いたいブランドを決めていると言うのだ。どこの店に置いてあるか、どの電車で行けばよいかまで調べてあると得意げに話していた。私はその姿に耐えがたい健気を感じ取っていた。しかし原因不明の体調不良が発症してからもう二か月ほどにはなり、来週もう一度病院に行って検査を受ける予定だが、原因はいつまでも分からないままだった。私は祈るような気持ちで、たかの体調が万全に回復することを祈り、木漏れ日の並木道から、また二人でゆっくり家に帰った。
家に着くと私は、耐え難い程の眠気を催していた。五感が剥離していくような感覚がやはり感じられ、かなりふらふらとしていた。「大丈夫?」というたかの声も、少し遠く聞こえた。「うん……暑さにやられたかな、少し眠いかも」
「ええ」
「大丈夫、少し寝れば治るさ」
「本当に?」
「本当だよ」たかが私の体を支えている感覚が、何故か他人事のように感じられた。「じゃあ一緒に寝よう。何かあったらすぐ分かるから」そのまま私は彼女に支えられて二階に上がり、いつもたかが休んでいる大きめの寝室に入った。たかが私用の布団を急いで引っ張りだして床に敷いているいるのが見えたが、私の眠気は強まるばかりで、体を動かさないのに視界がぐらぐらと揺れているような気がした。「ほら、こっち来て!」という声が、洞窟の遥か向こうから響く声のように聞こえる。光に惹かれる虫のように近寄っていき、何とか仰向けに布団に寝転ぶのに成功すると、横にたかが座ったのが分かった。「ゆっくり寝なよ。疲れているでしょう」という声を最後に、私はどこかへ体が落ちるような浮遊感と共に眠った。
私はその直後に目を覚ましたように思うが、身をもたげると、そこには畳のある寝室などは無かった。私は金属の浴槽のようなものに収まっていて、体の至る所に様々な色の線が刺さっている。体中を探れば、それは頭にも容赦なく刺さっていた。困惑して周りを見回すと、灰色一色で、病室のような所だった。私の他にもいくつもの金属の入れ物があり、そこには時に人間が、時に脳髄単体が、時に脊髄一本が、そして時に腐乱しかけて体が欠けた人間が入っていた。更に金属の管が細いのから太いのまで壁から床まで縦横に走っており、部屋の隅には妙に古びた全身黒鉄色の機械らしきものが鎮座していた。壁には掠れた文字で、「第五枝」と書いてある。私はすっかり混乱した。そして助けを呼ぶつもりで大きく息を吸い込むと、軋んだ音と共に、薄暗い部屋に一筋の光が差した。そして小柄な女性が部屋に入ってきたが、私の姿を見るなり、明らかに動揺した様子を見せた。「え、あ、あれ、え、どうして、あ、あ」と呟いて、手に持っていた紙の束を床に取り落とし、部屋から逃げ出そうとした。住んでの所で私は彼女を呼び止めた。「あ、ちょっと、待ってください!」白衣を着た小柄な女性は恐慌した表情で、私の言葉を聞いたというよりは恫喝されたと言った風で立ち止まった。「は、はいぃ……な、何でしょう、かぁ……」私はあまりに哀れになって、むしろ混乱が晴れてきた。「ここは何処です?僕はここではない場所にいたと思うのですが。僕は危害を加えたりしませんから、聞かせてほしいんです」そう言うと女性はようやく落ち着きを取り戻したのか、足元の紙の束を拾い上げて近くの束に置き、恐る恐る近づいてきた。彼女は深呼吸を何度もして、呼吸を落ち着けていた。「ええと、どこから説明すればよいのか……そもそも説明して良いことなのか……分からないんです……説明すると貴方を酷く傷つけるかもしれないし……うーん」彼女は悩まし気だった。「そう言う時点で、ある程度予想がついてしまいますから。包み隠さず行ってしまってください」
「ああ、そうでしたか……」彼女は胸元からメモ帳とペンを取り出して、何かを書いてから言った。「ここは、夢を見せる場所です。死んだ人もいますし、死んでない人もいるんですけど。えっと、詳しくは説明できないんですけど、とにかく体の一部を保存して、そこから……魂ですね、DNAではないです、それを抽出して、それから……この機械で作った“場”に、その魂を送るんですね……えーっと、別に仮想では無いんですけど、仮想世界って言って伝わりますかね……最近の用語なんですけど。あ、あと収容の基準とかは言えないです……」私は、衝撃を大して受けなかった。あれらの日々に、私は少なからぬ疑いを抱いていたからだ。いつからたかとの日々が始まったか、私は見当が付かなかった。私はあの日々に虚構性を見出していたのではない。しかしその幸福に見合わぬように思えることへの疑問は常にあり、したがって尊ぶ気持ちと不安が同居する混沌とした淡い恐怖感を、根底に抱いて過ごしていたのである。「そうですか」と私が呟くと、女性は言った。「あ、でも、たかさん、貴方のお連れの方ですよね、その方は嘘じゃないですよ。あの人も本物の人間です。というか人間は全員本物の人間です。この機械の世界で出会ったというだけです」
「どうしてご存じなんです?」
「管理運営しているのは私ですし、欲望に基づいて魂を配置したのも私だからです」私は呆気に取られていたが、一つ重要なことを思いついた。「もし管理しておられるなら、一つお願いです。そのたかが今、原因不明の熱っぽさに悩まされているんです。それで外出が出来ないと。どうか治していただけませんか」女性はすぐに先ほどのメモ帳を取り出し、物凄い速度で何かをメモし始めた。「ああ、それは……はい、了解いたしました。必ず治させてもらいます」
「それと、笑顔の仮面を付けた人物もいます。害はなさないのですが、不気味で困っています」女性は顔をこわばらせたが、すぐに持ち直した。「それも、はい、そうですね、こちらで対処します。対応が遅れて申し訳ありません……」
「いえ、構わないんですが」
私は、もう少しここについて知りたい好奇心を掻き立てられた。「ここは貴女一人で運営しているんですか」彼女は少しけげんな顔をしたが、答えてくれた。「曾祖父の代からの事業です。大戦中に彼が思いついて、五稜山の山奥にこの機械の原型を作りました。その後事業は代々受け継がれて、今は私です。収容する人間の人数も、徐々に増えていきましたが……」
「神様みたいな所業ですよ」
「……父は、これは天国を作る機械だとよく言っていました。私もそうだと考えています、ですが……」女性は声を落として、物憂げに歩き回った。「今回のように起き出してしまう人がいたり……さっき言ってた笑っている仮面の人、あれはここが作られた世界だと気づいた人の集団なんです。何でか皆ああなってしまうんです……確認次第、取り除くようにしていますが……まだまだ不完全なんです、この機械は。私の仕事はここの管理運営と、この機械の機能向上に生涯を捧げることです」
女性は私に向き直って、改まった口調になった。「すみません、大丈夫でしょうか。この後、どうしましょう」
「どうする、とは?」
「今回の貴方のように、起き出して事情を聞いた人は、もう戻りたくないという人がいるんです。このまま死なせてくれ、とお願いされます。その場合私はその人の言うことに従いますが。どう、しましょう……」明らかに女性は怯えていた。場合によっては私を殺さなくてはならないことに怯えているのだろうし、恐らく起きて事情を知った人が行う悲嘆や怒り、罵倒などを恐れてもいるのだろう。小さな手は震えているし、唇をかみしめている。私は決意を込めて言った。「僕は貴女の仕事を尊敬しますよ。これは本当に倫理的な仕事ですから。曾祖父も、そこから続く人々も、貴女も、本当に優しい人なんだと思います」女性は目を少し輝かせた。「それに僕は、一人愛する人が天国にいます。天国に来てから出会った人です」
「それでは……」
「ええ、僕は喜んで天国に帰ります。むしろより有難い気持ちを持って帰れますよ」女性は泣きそうな顔で喜んで、ありがとうございます、と繰り返していた。そして彼女は私を寝かせて、部屋の隅の機械のスイッチを規則的に動かし始めた。「五分ほどで戻れると思います」と言い、金属の浴槽に仰向けになっている私に、もう一つの話をした。私は段々眠気が出てきた。「たかさん、あの人以前にも起き出したことがあって、同じようなことを説明したんです。あの人も、戻ることを選んだんです。天国に来てから出会った、大事な人がいるんですって……」私は完全に眠気に落ちてしまう前に、感謝の念を抱いた。あの小さな体が、どれだけの人間の至上の喜びを叶え、またそれを維持してきたのだろうと考えると、感謝しないではいられなかった。「ああ、それは……本当に、嬉しいことです……大変でしょうが、どうかこの仕事を続けてください……僕は感謝しています、応援してもいますから……」
「……おやすみなさい」一粒の水が私の額に当たった感覚と共に、私は天国の暗闇へと再び下降していった。
目を覚ませば、目の前にはたかがいた。もう私は熱病の気は無かった。「ああ、知っていたのかい?」と私が言う。「知ってたよ」とたかも言う。「もう、体調も治ったよ。どこまででも行けるよ。その前に、もう一回散歩しようよ」
私は祈りのような気持ちを持って布団を立った。天国で、二人は手を繋いだ。