らーめんが冷める前に
毎日空を焼いている兎のお話
特段不安な心持というものがそうさせたのでは無いけれども、唐突に外出したくなる時がある。移動する感触、風の中に肌を埋める感覚、変化する街並み、それらを味わうために、そして二度と家に帰らなくても良くなる奇跡を期待しつつ、私は大抵の場合毎日のように自転車に乗る。同じルートを辿る時は、空想の準備運動として、知らないルートを辿る時は、紋切の詩情溢れる帰還無き旅路を求めて。現代に跋扈する数多の科学は、私がどれ程馬鹿げた道筋を行っても、大抵の場合家に帰してくれる。
イヤホンを付けて、お気に入りのラップ・ミュージックをかければ、もう小さな詩の旅は万端である。言葉の詩と楽章の詩が我々を感嘆させないならば、生きられた世界を読んでみれば良い。注意力の散漫と虚無主義は、自転車に乗っている時に消える。
いつも私は理由なく急ぎ気味で自転車を漕ぐのだが、その日もそうしていた。夕方の五時に家を出て一時間も漕ぐと、夕焼けが見えてきた。一体だれがこんな気の利いた芸術を見せてくれているのだろうか。恐らくは何某の神が空をキャンバスのように使って雲を描いているのだが、神がそうして雲の速度と位置について悩んでいる横で、別の神、或いは兎が空を焼いているのである。全ての苦悩と歓喜を平等に寄せ集め、頑丈な袋から優しく火を撒くのが兎の役割である。とても小さいので、地上からは見えないし、古代、中世、近世を通して、この兎を発見した画家は居なかった(はずである)。
私は早速西へ西へ自転車を走らせ続けた。というのも、代り映えのしない住宅街を走るのに心が疲れて、しかし体力が有り余っていたら、太陽と地平の裏側へ行ってみたいと常々考えいたからだ。それには地平線を踏み越える必要がある。
サビの部分を聞いてうつらうつらとしていれば、気づかない内に我々は一瞬の花畑を通過することが許され、その後真四角の建物が見えてくるが、道は一本しかない。まだ私は船を漕いでいるが、足を動かすことを忘れてもいない。真っ黒い直方体に、この世の様々な色を埋め込んだ窓があり、朝昼夕の空より色彩が豊かである。それらが乱立しており、私はその黒い森に一本ある舗装された道を走らされている。錆びがか細い声で解体の兆しを発したので、私はさらに急いで行った。ところでここにはどんな音もしなかった。丁度今我々が住んでいる世界のように。
すると道端に白い塊が見えた。花だろうと思って近寄れば、それは袋で、隣に灰色の兎が眠っている。目線を合わせようとすると尻をつけて地面に座り込まねばならない程小さかった。これこそが、毎日気付かれないように空を焼いている兎である。目を覚ました兎に「袋の中を見せてくれませんか」と頼んでみたのだが、兎は健気に頭を左右に振るだけだった。兎は、「僕たちと一緒に空に住むなら見ることが出来ます」と言った。兎は機械的純真さを振りまきながら、人間的な目の中で、楽園に従事する魅力を無言の内に説いていた。私は少し考えてから、「三年経って、それでも私が空のことを忘れて居なかったらそうします」と言った。兎は袋をくわえて向こうの方へ飛び去ってしまった。
満足して自転車に跨り、少し漕いだ後、私は重要なことを聞き忘れたことを思い出した。時たま空一面に君臨する黄金色は、一体どうやって作っているのか、そういえば聞かなくてはならなかった。あの原初的黄金こそ、私が兎を信じるきっかけになったものだが、機を逸した。そういう時は、帰りにらーめんを食って帰るのが良い。