episode08 父の研究③
柊が連れて行かれた部屋は、冷たく無機質だった。
四方の壁は真っ白で、天井からは青白い蛍光灯の光が降り注いでいる。部屋の中央に置かれたテーブルと椅子は、最低限の機能だけを備えた無骨なデザインだ。
「座りたまえ」
背後で命じる声に、柊は振り返った。そこには見知らぬ日本人の男が立っていた。年齢は四十代半ばだろうか、短髪に眼鏡をかけたその姿は、一見するとただのビジネスマンのようだった。ぶらさげた名札には「白石」と書かれている。
「……日本人?」
柊は警戒しながら椅子に座った。
白石は静かにうなずき、席に着くとテーブルの上に一台のタブレットを置いた。
柊は眉をひそめた。
「……これは?」
白石は無言のままタブレットの画面を指先でなぞり、柊の方に向けた。
「これは君のお父様が使っていたものだ」
白石は落ち着いた声で言った。
「重要なデータが保管されているものと思われる。きみのこのiPadのパスワードを解除してほしい」
「そんなの……俺にできるわけないだろ」
柊は苛立ちを隠さず言い放った。
「そもそも俺は、父親がどんなパスワードを使うかなんて知りませんよ」
白石は微笑を浮かべ、テーブルに肘をついて柊をじっと見た。
「そうイライラしないでくれ。単純に、君なら何か思い当たることがあるかもしれないと思っただけだ」
「虫のいい話ですね」
柊は冷たく言い放つ。
「なんで俺がそんな個人情報を教えないといけないんですか。俺は父親のことなんてほとんど知らないんですよ」
「ほとんど知らない?」
白石は小さく首を傾げた。
「……なるほど、だが面白いね」
「何がだよ」
柊が眉をしかめると、白石は急ににやりと笑みを浮かべた。
「君は本当にお父様にそっくりだ」
その言葉に、柊は不快感を覚えた。
「勝手に決めつけないでください」
しかし、白石は柊に構わず、タブレットを柊の顔の前にかざした。
「まあ、試してみようじゃないか」
「何を――」
柊が言葉を終えるより早く、タブレットの画面が一瞬だけ光を放つ。
「……え?」
柊は言葉を失った。
画面にはiPadのアイコンが並んでいる。ロック解除されていた。
「ふざけるなよ!なんで俺の顔で……!」
「ふふ、親子や兄弟なら顔認証を解除してしまうことがあるようだね」
「――な……」
「イツキはiPadを改造し、顔認証でしかロック解除できなくしていたようだ」
柊はようやく理解した。この男たちは柊にパスワードの「番号」を求めていたわけではないのだ。
柊の「顔」を使いたかったのだ。
そのためにわざわざスリランカまで、ラシャを使って連れて来させた。
「父さんはどこだ」
「さあね」
男は薄く笑った。
「うそをつくな、父さんのタブレットでいったい何をしようとしているんだ!」
柊は椅子を蹴って立ち上がろうとしたが、背後に控えていた白衣の男女がすぐさま肩を押さえた。
「落ち着きたまえ」
白石はあくまで冷静にタブレットを操作し始めた。その画面には数えきれないほどのデータファイルが並んでいる。
「きみはお父様が何の研究をしていたのか知っているのかね」
柊はだまっている。
知らない、と言いたくなかった。
画面には数多くのデータファイルが並んでいた。
「このiPadには、君のお父様がこの研究所で行っていたすべてのデータが保管されている。だが、特に重要なのはこれだ」
男がタブレットを操作すると、ひとつのファイルが開かれる。
画面には、ウイルスの電子顕微鏡写真と思われる画像と、いくつかの難解なグラフが映し出された。
「植物ウイルス……?」
柊は眉をひそめる。
「そう。植物ウイルスがヒトや動物に感染する可能性についての研究だ」
男は冷静な口調で説明を始めた。
「いやでも、植物の菌は人間に感染なんて……」
「そのとおりだ。一般的に、植物に感染するウイルスはヒトや動物には感しないと考えられている。だが、過去にはタバコモザイクウイルスが癌を誘発する可能性が議論されたこともあるのだよ」
男はタブレットを操作しながら続ける。
「常識だと思われていることの多くは、実は科学的に解明されていないままだ。君のお父様は、植物ウイルスがヒトや動物に感染しないという常識を覆そうとしていた。――そして、ついにあの男は証明したのだよ」
柊は眉をひそめた。
「人体に直接影響を与える植物ウイルス――デスプランツの培養に成功したのだ」