8 彼女の病気と蓮の悩み
楽しかったと頬を紅潮させて喜んでくれた詩音と別れて、蓮は雛子と共に病室を後にした。
次の約束は、四日後の週末。それまで詩音は、蓮のことを覚えていてくれるだろうか。
「蓮、ありがとね」
病院を出てなんとなく一緒に駅の方へと歩き出しながら、雛子がつぶやく。
「え?」
「詩音、すごい楽しそうだった。あの子いつもにこにこしてるけど、本気で笑ってるとこ最近全然見なくて。でも今日は、めっちゃ笑ってたじゃん」
蓮の知る詩音はいつも楽しそうな笑顔ばかりなので、それが普通だと思っていたけれど、雛子から見た詩音はそうではないらしい。詩音のことを大切に思っている雛子の言葉に、蓮は少し胸が切なくなる。
「なんて言うか、自惚れかもだけどさ。俺のピアノで詩音ちゃんが笑ってくれるなら、嬉しい」
「自惚れだし! って言いたいけど、実際蓮のピアノで詩音に笑顔が戻ったもんね。すごい悔しいんだけど」
膨れてみせながらも雛子はくすくすと笑うから、本心では喜んでいることが分かる。
そんな雛子を見ながら、蓮は躊躇いがちに口を開いた。
「あの、さ。詩音ちゃんは本当にいつか……俺たちのことも忘れちゃう、のかな」
「ん、多分ね。それがいつなのかは分からないけど」
ため息をついて、雛子は空を見上げた。
「なんで詩音なんだろうね。何も悪いことしてないのに。真面目に生きてきて、これから楽しいことたくさんあるはずの女子高生だよ。世の中にはもっともっと悪い人とかいるじゃん。そういうやつから記憶を奪えばいいのに。すごい不公平だと思う」
怒ったように雛子は見上げた空をにらみつける。蓮にはそれが、涙をこらえているようにも見えた。
「ヒナね、詩音に会う前いつもすごい怖いの。今日もまだヒナのこと覚えててくれてるかなって、毎回死ぬほどドキドキする。いつか詩音がヒナのこと忘れたら……ヒナ、泣いちゃうかもしれないな」
一度ぎゅうっと強く目を閉じた雛子は、微かに赤くなった目で蓮を見て笑う。
「その時は蓮、泣くのつきあってね。きっと、詩音の前では泣けないからさ」
黙って、それでもしっかりとうなずいた蓮を見て、雛子は嬉しそうに笑った。
「実は、詩音が蓮のこと話しだした時さぁ、正直ちょっとショックだったんだよね。ヒナや悠太くんより大事な人ができたのかなって思って」
「そんな俺、まだ会ったばっかだし、ヒナちゃんの方が長い付き合いだろ」
「うん、ヒナは詩音の親友だからね」
得意げに胸を張ってみせつつ、雛子は小さくため息をついた。
「でもね、ヒナと話してる時には見せない笑顔を詩音から引き出したのは蓮だからさ、感謝してるの。だから蓮、どうか詩音のそばにいてね。無茶なお願いをしてるのは分かってるんだけど、ヒナはやっぱり詩音に笑ってて欲しいから」
まっすぐに見つめる雛子の視線は、蓮の覚悟を問うているようにも見える。それを受け止め、蓮は分かったと噛み締めるように返事をした。
「ありがと、蓮」
小さくつぶやいた雛子は、一度ため息をつくと蓮を見上げて笑った。その表情は、どこか諦めたような儚い笑み。
「あたしね、蓮がいてくれてちょっとだけ嬉しいんだ。今まで詩音のこと、誰にも話せなかったから」
一緒に背負ってくれる仲間……みたいな、と遠い目をして雛子はつぶやく。
「どっちが先に忘れられるのか分かんないけどさ、一緒に詩音のそばに、いようね」
少し震えた雛子の言葉に、蓮はうなずいた。
◇
帰宅した蓮は、パソコンへと向かった。調べる内容は、詩音の病気について。
病名を聞いた時にも少し調べたけれど、完全に文系の蓮にとって医学的に説明した文章は難しすぎてよく分からなかったし、有名な俳優も患った病気だったせいか彼に関するゴシップまがいの記事ばかり出てきて読むのをやめてしまったのだ。
もう一度調べ直して、やはり医学用語はさっぱり分からないものの、原因不明の病であることと、治療法が未だ見つかっていないことだけは理解する。
そんな中でひとつ、蓮の目を引いたページがあった。
それは、2年ほど前に更新の途絶えたブログ。詩音と同じ病を、発症してからの日々を記録したものらしい。
同窓会で知らない人ばかりだったことで病に気づいたこと、取引先の人の記憶を失ったために仕事を辞めたこと、従兄の記憶を失った日のこと。
自分に従兄がいたことが分からない、写真を見ても全く思い出せない、年に数回会っていたはずなのに、と当惑したような文章で書かれている。
その日を境にブログの更新頻度は一気に下がり、忘れたくないのに、と辛い心のうちを吐露するものが時折投稿されるだけになる。
最後の投稿は、もう覚えているのは母親のことだけだ、世界には自分と母親しかいないようだとつぶやくような一文のみ。
パソコンを閉じて、蓮は眉間を押さえてため息をついた。詩音も、同じような経過を辿るのだろうか。
だけど蓮のことは覚えていてくれたじゃないか、と頭の中で声がして、どうしてもそれに縋りたくなる。
雛子が詩音に会う前に怖くなると言っていた意味が、少しだけ分かったような気がする。
あんなに楽しそうに笑ってくれたのに、蓮くんと呼ぶ声だってまだ覚えているのに、次に会う時に同じように笑いかけてもらえる保証はないのだから。
まるで初対面のような対応をされた時、蓮はどんな反応をすればいいのか、まだ分からない。
沈み込んだ気持ちを振り払うように、蓮はピアノの前に座った。
随分長い間パソコンに向かっていたらしく、外はもう真っ暗だ。
ぽーんと指先で鳴らした音が、ゆっくりと部屋の中に溶けていく。
なんとなく指先が辿ったメロディはやっぱり詩音が好きだと言ってくれた『ため息』で、蓮は彼女の笑顔を思い浮かべながら一心に音を奏でた。
いつもより柔らかな響きは、詩音のことを考えているからだろうか。
今なら、理想の音に手が届くような気がした。
曲を弾き終えると、手を休めずに蓮は次の曲を弾き始める。
きらきらと輝く、だけど壊れそうに儚い音で。病室の詩音に届けるような気持で蓮は鍵盤に指を走らせた。
「――だめだな、全然違う」
しばらくして、蓮はため息をついて手を止めた。部屋の中に浮いていた音たちが、ぱちんと弾けて消えていく。
美しい音色には、届きそうで届かない。もっと綺麗な音で、胸が苦しくなるほどに切ない響きで弾かなければならないのに。
「どうやったら届くんだろ。『ため息』なら、結構いい音が出るんだけどなぁ」
なんとなく指先でポンポンとメロディラインを鳴らしつつ、蓮はつぶやく。
「何か悩み事?」
突然背後からかかった声に、蓮はびくりと身体を震わせて振り返った。
「……母さん。おかえり」
「ただいま。ごめん、練習の邪魔したかな」
「いや、大丈夫だけど……」
なんとなく気まずくて、蓮は鍵盤から手を下ろす。
今もなお活躍するピアニストである母親は、蓮にとって憧れだが、同時に手の届かない存在でもある。未熟な蓮には、彼女のように多くの人を惹きつける演奏がまだできないから。
「コンクール、もうすぐだっけ。練習してたの?」
「あ、うん……一応」
言葉を濁して、蓮は曖昧にうなずく。
母親は基本的には蓮のピアノに口出ししてこないが、レッスンの内容は蓮が師事しているピアノ講師から逐一連絡がいっているはずだ。
蓮が今一つ完成度を上げられていないことも、きっと知っているのだろう。
「夕食も食べずに弾いてたんでしょう。あまり遅くまで根詰めてやってると、疲れるわよ。休息も大事よ」
「ん、分かってる」
夕食を食べ損ねたのは調べ物をしていたせいなのだが、それをわざわざ伝えることもない。詩音のことは、たとえ母親であっても軽々しく話題にできなかった。
「明日もレッスンでしょう。ご飯食べて、早めに休みなさいよ」
先生によろしくねと言って、母親はふわぁっと大きな欠伸をした。地方での公演を終えて帰宅したものの、明日はまた別の場所で演奏会があるらしい。
先に休むからと部屋を出て行こうとした彼女は、ふと足を止めて蓮を振り返った。
「ちょっとだけ聴いてたんだけどさ、高音がもっと伸びるといいかもね。まだ音が硬いから、きらきらとした音で弾いてほしいなって思う」
「……っ、うん、ありがとう。頑張る」
「蓮は、綺麗な音が持ち味だから。それって結構強力な武器よ。頑張って」
それだけ言って、母親は手を振って部屋を出て行った。
普段はほとんど何も言わないのに、時々こうしてぽつりと核心をついたことを言うのだ。
まだまだ、母親には敵わない。
「俺の武器……かぁ。でも今のままじゃ、戦えないもんなぁ」
音が綺麗だと褒められることは今までもあった。だけど、もっと磨き上げた音でなければ勝てない。
無関心なようで、しっかりと蓮の様子を把握している母親は、本番を必ず見に来る。
理想の音に手が届けば、彼女を納得させる演奏を、結果を、手に入れられるのだろうか。
「きらきらした音……って、どうやったら出せるんだろうなぁ」
鍵盤を見つめつつ、蓮はため息をつく。やっぱり思い出すのは、詩音の笑顔。
彼女の笑顔は、蓮が弾くピアノよりもよっぽどきらきらしている。
あの笑顔みたいな音が出せたら。
詩音に会ったら、あの笑顔をまた向けてもらえたら、理想の音に近づくヒントをもらえそうな気がした。