5 消失病
「詩音、調子はどう?」
ベッドに横になって本を読んでいると、軽いノックの音と共に白衣の男が顔を出した。
「悠太! えへへ、今日はね、すごく調子がいいんだぁ」
ぱたんと本を閉じ、詩音はベッドから飛び降りて白衣の胸元に抱きつく。すると、小さな苦笑と共に頭を撫でられた。
幼い頃から変わらず、いつも笑って詩音を受け止めてくれる悠太は、詩音にとって大切な人の一人だ。
この病院で医師として働く悠太は、詩音の従兄でもある。主治医ではないけれどいつも詩音のことを気にかけてくれて、忙しいはずなのに時間を見つけてはこうして詩音を訪ねてきてくれる。
「ご機嫌だね、詩音」
「知りたい? とっても素敵なことがあったの!」
くすくすと笑いながら見上げると、ぽんぽんと宥めるように頭を撫でられて、ベッドに座るように促される。
「あのね、今日ね、新しいお友達ができたの」
「新しいお友達?」
首をかしげる悠太に、詩音は蓮との出会いを説明する。
かつて、コンクールで見かけた素敵なピアノを弾く人に出会えたこと、お願いしてピアノを弾いてもらったこと、また会う約束をしたこと。
忘れてしまわないうちにこうして誰かに話しておけば、蓮のことを忘れてしまっても彼に出会ったことは消えないような気がして、詩音は必死に蓮とのことを語る。
「そう、良かったね。だけど詩音、この先誰かともう一度会う約束をする時は、僕らにも相談して」
頭を撫でながらも諭すような口調に、詩音は唇を尖らせた。
「分かってる。……約束の時までその人のことを覚えてるか分からないから、だよね」
「うん。事情を知ってる人ならいいけれど、『蓮くん』には詳しいことは分からないだろう。彼を混乱させてしまうかもしれない」
現時点では詩音は蓮のことを覚えているし、忘れたくないとも思っている。だけど明日のことは分からない。悠太の言葉に反論できず、詩音は唇を噛んでうつむいた。
黙り込んだ詩音の肩を抱き寄せて、悠太は慰めるように背中をそっと撫でてくれる。
「素敵なピアノ、僕も聴いてみたいな」
「すごく上手なんだよ。きらきらした音でね、心があったかくなるような音なの」
今も頭の中に響いているような、蓮のピアノ。忘れないようにと願うように、詩音は目を閉じた。
◇
詩音がこの病を自覚したのは、最近のことだ。
何気なく中学の卒業アルバムを見ていたところ、見知らぬ顔が増えていることに気づいたのが最初だった。
そう人数の多い学校ではなかったのに、クラスメイトの顔すら覚えていないことに強い違和感を覚えた。
幼稚園からずっと同じ学校に通っている幼馴染に頼んで一緒に確認してもらったところ、同級生や教師の半分以上の記憶を失っていることが分かった。
全く見覚えのない人物を指差して、随分とお世話になった担任だと話す幼馴染の声も、覚えていないと首を振った詩音を見た時の彼女の愕然とした表情もはっきりと覚えているのに、中学時代の記憶は白く靄がかかったように曖昧だ。きっと記憶を失った人の分だけ、思い出も失っている。
その後、アルバムを開くたびに知らない顔が増えていくことに耐えられなくなって、詩音はアルバムを処分した。
全く覚えのない人たちと楽しそうに笑い合う自分の写真が、気持ち悪くてたまらなかった。
全ての人の記憶を失くした時、詩音の見える世界はどうなるのだろう。少しずつ真っ白に染まっていく世界が、時々怖くなる。それを表に出したことはないけれど。
病院に行っても最初は気のせいだろうと笑われて、あちこちをたらい回しにされた。
それでも決定的になったのは、詩音が両親のことを全く覚えていなかったのが判明したからだ。
もちろん、自分に父親と母親という存在がいることは分かっている。だけど、顔も名前も思い出せないのだ。これが両親だと写真を見せられても、見知らぬ男女の姿としか思えない。きっと今、目の前で二人に会ったとしても何も感じないだろう。
もともと家族関係はあまり良好ではなかったようで、親らしいことをしてもらった痕跡はほとんどなかった。両親ともにそれぞれ会社を経営していて、仕事の忙しさを言い訳に詩音の世話は全て外注され、学校行事に顔を出したことすらなかったらしい。
必要な物は何でも買えるだけのお金を与えられていたし、タワーマンションの最上階にある部屋は、週に数回家政婦がやってきて家事をしていく。
外から見れば満たされていたであろう詩音の生活に、両親は全く出てこない。
そのせいで両親の存在そのものを綺麗に忘れていたことが、詩音の病をしっかりと調べるきっかけとなったのは皮肉なものだ。
うんざりするほどの色々な検査を経て下された結論は、消失病という聞いたことのない病名だった。ほとんど同時期に有名俳優が同じ病を患っていることが話題になり、この病気の知名度は一気に上がったけれど。
だけど治療法のないこの病は、失われていく記憶をただ見送ることしかできない。恐らく詩音より先に発症した俳優は愛妻家で知られていたのに、すでに妻の記憶すら失っているという。離婚したと聞くけれど、本人は結婚した記憶すらないのだから、一番辛いのは周りの人なのかもしれない。
詩音も入院はしているものの、時折検査をしながらただ日々を過ごすだけ。いつ、詩音の世界が一人きりになるのかも分からない。今のところ身近な人のことは覚えているけれど、明日になれば誰かの記憶を失っているかもしれない。
そして自分たちのことを綺麗さっぱり忘れ去った娘に興味は無いのか、両親は一度病状を聞きにきて以降は顔を出していないらしい。
もともと一人暮らしみたいなものだったから身の回りの生活に不安はなかったけれど、このまま記憶を失くし続ければどうなるかは分からない。
気づけば詩音は、それまで一人で住んでいたタワーマンションから、大学病院の特別病棟の一室へと引っ越すことになっていた。
一日数万円とも言われる特別病棟の部屋代は、すでに年単位で支払いが済んでいるらしい。
贅沢な子捨てだなぁと、他人事のようにつぶやいた詩音に、渋い顔をした悠太が寄り添ってくれたのを覚えている。
休学中の高校も、近いうちに退学することになるだろう。すでに高校のクラスメイトの大半の記憶も、詩音は失っているから。
今は悠太のことも覚えているけれど、いつか彼のことすら分からなくなる日が来るのかもしれない。
きっと同じことを考えているのだろう、悠太は詩音の部屋に顔を出すたびに、酷く緊張した様子を見せる。詩音が彼の名前を呼べばその表情は優しく緩むけれど、きっと大きな負担をかけているのだと思うと心が痛む。
今日出会った蓮のことも、明日になれば覚えていられるかどうか分からない。
蓮との再会の約束は、三日後。
それまで覚えていられますようにと願いながら、詩音は手帳に記された文字をなぞった。