4 詩音の病
「忘れる……って」
言葉を失う蓮を見て、詩音は困ったような笑みを浮かべた。
「何年か前にさ、俳優が告白して話題になったじゃん。ほら、朝ドラの……」
詩音が、かつて人気だった俳優の名前を挙げる。同時にワイドショーを騒がせた彼の病も思い出した蓮は、ゆっくりと口を開く。
「……『消失病』」
「ふふ、知ってた? 結構話題にもなったもんね。そう、その病気」
笑顔を浮かべている詩音だけど、その表情は泣き出す寸前のように見えた。
消失病と呼ばれるその病気は、人物の顔とその人にまつわる思い出を失っていくのだという。
数年前にその病気を告白した俳優は、自分の頭の中にある部屋の中から毎日誰かが一人ずついなくなり、最後はきっと自分だけになるだろうと自らの病状を説明していた。
そして誰もいなくなった――そう表現するのがぴったりな病気であると。
彼は今どうしているのだろう。テレビや雑誌でその姿を見なくなって久しいことに、今更気づく。
「詳しくは分からないけど、忘れるのは人物と、その人に関する思い出だけなの。だから普段の生活には、今のところ困ってないんだけどね」
小さく笑った詩音は、ごめんねと言って蓮を見た。
「だから、蓮くんのことも次に会うまで覚えてるか分かんないんだ。新しく会った人のことは、なかなか覚えてられないみたいなの」
そう言って、詩音はベッドサイドのテーブルから手帳を取ると開いた。
「でもこうして手帳に書いておいたら、蓮くんのことは忘れても約束したことは残るでしょう。私が忘れてても、ピアノを聴かせてくれたら嬉しいな。音はきっと、覚えてるから」
「詩音ちゃん……」
掠れた声でつぶやいた蓮を見て、詩音は笑みを浮かべる。その表情は、笑顔なのに泣いているように見えた。
「ごめんね、引いたよね。ヤバい奴と関わっちゃったって思ってる?」
「……っそんなこと」
慌てて首を振ると、詩音はうつむいて手帳を見つめた。カレンダーにはいくつか人物名と時間が書いてあるのが見えて、そうやって彼女が誰かと約束をしていることが見てとれる。
「蓮くんのピアノ素敵だったからさ、もう一度聴きたいなって我儘言いたくなっちゃったの。でもやっぱり、無理だよね。覚えてるかも分からない相手と約束なんて。ごめんね、この話はなかったことに」
そう言って手帳を閉じようとした詩音をさえぎって、蓮は検査や誰かの約束の予定が入っていない空白の日付を指差した。
「この日とこの日。あと、ここなら俺も空いてる」
「蓮くん……」
驚いたように顔を上げた詩音を見て、蓮は笑いかける。
「もう一度聴きたいなんて言われて、断れるわけない。『ため息』、今日よりもっといい演奏するから」
「本当に、いいの?」
「もちろん。それに、まだ忘れると決まったわけじゃないだろ。ピアノだけじゃなくて、俺のことも覚えてて」
大きく見開かれた黒い瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がる。美少女は泣き顔まで可愛いなと一瞬見惚れかけて、蓮は慌ててハンカチを差し出した。
「ありがとう、蓮くん。約束の日まで、毎日手帳を確認して忘れないようにするね」
手帳に加わった蓮の名前を指先で撫でながら、詩音が嬉しそうに笑う。
「……だけど、蓮くんが嫌になったら来なくていいからね」
「約束は、ちゃんと守るよ」
子供っぽいかと思いつつも小指を差し出すと、おずおずと詩音の細い指が絡められた。
「うん、約束」
涙を拭いながら笑う詩音を見て、蓮も笑顔でうなずく。
この時、笑顔の裏で詩音がどんな気持ちを抱えていたのか、蓮は知らなかった。
たくさん会えば忘れないなんて、思い上がりであったということも。
そっと絡めた小指のぬくもりを、この日交わした約束を、蓮はこのあと幾度となく思い出すことになる。
◇
三日後の夕方に会う約束をして、蓮は病室を出た。
また会えるのを楽しみにしていると笑った詩音が可愛くて、女の子と手を触れ合ったのなんていつぶりだろうと思うとくすぐったい気持ちになる。細く柔らかかった指の感触を思い返しながらにやけた顔を押さえつつエレベーターホールへと歩き出そうとしたところで、背後から声をかけられて蓮は足を止めた。
「きみ、ちょっといいかな」
振り返ると、白衣を着た若い男性が息を切らしてこちらに向かってくるのが見えた。
「詩音の、お友達かな」
シルバーフレームの眼鏡をかけたその男は、微かに眉を顰めながらそう言う。胸元の名札にちらりと目をやった蓮は、『相馬悠太』と書かれた名前と彼が医師であることを確認する。詩音の主治医だろうか。
「えっと、友達っていうか、今日会ったばかりなんですけど」
「あぁ、そうなのか。どうりで見たことのない顔だと思ったんだ」
相馬はにっこりとした笑みを浮かべたが、その目の奥はひとつも笑っていない。どこか怒りを滲ませたその表情に、蓮は戸惑って瞬きを繰り返す。
「申し訳ないんだけど、詩音はもうきみとは会わない」
「え?」
「ああ見えて、あまり体調が良くないんだ。無理をさせると良くないからね」
冷たく言い放たれて、蓮は慌てて首を振る。たった今、また会うと約束をしたばかりなのに。
「だって俺、詩音……さんと、約束して」
「あの子にはこちらから言って聞かせておくから。約束の日に来てもらっても、申し訳ないが詩音には会わせられない」
そういうことだから、と一方的に話を切り上げられそうになって、蓮は思わず拳を握りしめた。
「それって……、詩音さんが俺のことを忘れているかもしれないから、ですか」
蓮の言葉に、相馬は目を見開いた。唇が、どうしてそれをと震えながら小さく動くのを見て、蓮は相馬との距離を詰める。
「詩音さんから聞きました。次に会う時に、俺のことを覚えていられるか分からないって。だけど、それでも俺たちは約束したんです。また会おうって」
一息にそう言うと、相馬の表情が僅かに緩んだような気がした。
「今日初めて会ったきみに、詩音はそこまで話したのか」
ふ、と小さくため息を落として、相馬は再び厳しい表情を浮かべて蓮を見る。
「そう。次に会った時には、恐らく詩音はきみのことを覚えていない。全くの初対面として出会うことになる。今日話した内容も、約束も、詩音はきっと忘れてしまうから。……それでもきみは、また詩音に会おうと思える?」
相馬の言葉を受け止めて、蓮はまっすぐに彼を見つめ返した。
「そのつもりです」
しばらく黙って見合っていると、先に視線を逸らしたのは相馬の方だった。目を閉じて一度深く息を吐き、そして蓮を見つめる。その視線は、さっきよりも柔らかい。
「詩音は、素敵な出会いをしたね」
彼女のことを想うかのような優しい声音に、蓮の心は少しだけもやもやとする。詩音とは今日会ったばかりなのに、随分と心を掴まれてしまったなと思いつつ、蓮は黙ってうなずいた。
「でも、きみが思っている以上に詩音の病状は深刻だ。今日の彼女にまた会いたいと思っているのなら、それは難しいと思う。きみが傷つく前に、詩音のことを忘れた方がいいかもしれない。……次に会う時までに、考えておいて」
穏やかに、だけどきっぱりとそう忠告されて、蓮は言葉を失う。次に会う時、詩音はどうなっているのだろう。
それでも蓮は、詩音と交わした約束を破る気はなかった。もしも蓮のことを忘れていても、彼女のためにピアノを弾くと約束したのだから。
「ありがとうございます。だけど、俺はまた詩音さんに会いに来ます」
はっきりとそう宣言して大きく頭を下げると、蓮はやってきたエレベーターに乗り込んだ。