3 曖昧な約束は、しない主義
二曲目に蓮が選んだのは、近々あるコンクールの課題曲。このために書き下ろされたという、星をテーマにした曲だ。
真っ暗な夜空に浮かぶ星のような、硬質な輝きを持つ音を。だけど尖った音ではなく、きらきらと遠くまで届くような柔らかい響きで。
何度となく師に言われた言葉を、蓮は未だに掴みかねている。頭の中で響く理想の音を、どうしても指先で鳴らすことができないのだ。
だけど、今なら。詩音の前でなら、理想のきらきらとした音を出せるような気がした。
「……流れ星、みたい」
ぽつりと詩音がつぶやく。タイトルを言っていなくても星のイメージは伝わったらしいことに、少しだけ嬉しくなる。
「すごく綺麗な曲。蓮くんはすごいねぇ」
「きらきらしてた、かな」
「うん。でも、さっきの『ため息』の方がきらきらした音だったかなぁ」
詩音の言葉に、蓮は苦笑した。やはりまだ理想の音には届かないようだ。何か少しだけ掴めたような気はするけれど。
「ねぇ、もっと弾いて」
ねだるような詩音の視線に、蓮は一瞬どきりとする。美少女の上目遣いは破壊力が抜群だ。
少し熱を持った頬はピアノを弾いて体温が上がったからということにして、蓮は時計を見る。
時刻は間もなく正午。午後には検査があると言っていたし、そろそろ昼食の時間だろう。
「でも、午後から検査があるって」
その言葉に、詩音は小さく唇を尖らせた。そんな表情も可愛いと思わず見惚れかけて、蓮は慌てて視線を逸らす。
「……そうだね、そろそろ戻らなきゃ。でも、蓮くんのピアノ、もっと聴きたかったのになぁ」
心底残念そうに詩音がつぶやくから、蓮も何だか悪いような気がしてくる。
「じゃあ、また……今度、とか」
恐る恐るそう言うと、詩音は弾かれたように顔を上げた。
「いいの!?」
「う、うん」
また会えるかもしれないという下心込みだったので、少し罪悪感を覚えつつも、詩音があまりにも嬉しそうに笑うから蓮も嬉しくなる。きっと彼女は蓮のピアノに興味があるだけなのだろうけど。
「あぁごめん、今ここじゃ先の検査予定が分かんないや。部屋に戻れば分かるから、一緒に来てくれる?」
「えっ」
今日会ったばかりなのに、病室にまで行ってもいいのだろうか。思わず言葉に詰まる蓮を見て、詩音は真面目な表情で首を振った。
「また今度、なんて曖昧な約束はしたくないの。忘れてしまったら、困るから」
先程までの明るい表情が嘘のように、詩音は目を伏せてつぶやく。理由は分からないものの、そこまで蓮のピアノをまた聴きたいと思ってくれるのなら、断る気はない。
「分かった。俺も予定とかあるし、お互い都合のいい日を合わせよう」
「うん。ありがとう」
顔を上げた詩音は、また明るい笑顔を浮かべていた。だけどどこか陰を感じさせて、蓮は内心で小さく首をかしげた。
◇
詩音が蓮を連れて行ったのは、病院の最上階だった。
エレベーターホールからして雰囲気が明らかに違い、どこかの高級ホテルと勘違いしてしまいそうだ。
「え、ちょ……ここ、特別病棟って」
「うん。ここに入院してるの」
怖じ気づく蓮をよそに詩音はすたすたと病棟を進み、大きなドアの前で立ち止まる。
部屋の中も、病室というよりもホテルといった方がしっくりくるような高級感だけど、ベッドサイドに置かれた医療機器やネームプレートが、ここが病院であることを示している。
「入院……て、何の病気で」
蓮の言葉に、詩音がぴたりと足を止めた。失言だったかと思わず口を押さえた蓮を振り返って、詩音はソファに座るようにと促す。
恐る恐るふかふかのソファに腰を下ろした蓮を見て、詩音も向かい側に座る。
「私ね、記憶を失ってく病気なの」
あっけらかんとした口調で告げられた言葉に、蓮は目を瞬く。
「記憶を、失う」
おうむ返しにつぶやいた蓮にうなずいて、詩音はソファの背もたれに身体を預ける。
「昨日まで覚えていたはずの人のことを、存在ごと忘れちゃう。毎日、私の中から誰かの記憶が一人ずつ消えてくの」
驚いた? と首をかしげた詩音は、笑顔を浮かべていたけれど、その瞳は暗く翳っていた。