2 きらきらした音
少女は迷う様子もなく病院の建物内へと入ると、蓮の手を引いてどんどん歩いていく。先程、蓮が受診した整形外科の外来を通り過ぎ、更に奥へ。
「待って、どこに行くつもり?」
「だからピアノのあるとこだってば。大丈夫、この時間は使ってないはずなんだ」
少女がそう言って、行こ! と元気よく歩き続ける。
似たような外来の窓口がいくつも並んでいて、もはや蓮は自分がどこにいるのかも分からない。
ぐるぐるといくつもの角を曲がり、たどり着いた先には『療法室』と書かれたプレート。
こんな場所にピアノが? と戸惑う蓮に気づかない様子で、少女はそばの受付窓口をのぞき込んだ。
「山科さーん! ピアノ借りていい?」
「あら、詩音ちゃん? いいけど、珍しいわね、ピアノなんて」
受付で何やら作業をしていた若い看護師が、声に気づいて振り返る。怪訝そうなその表情を見て、少女――詩音は、ぷくっと頬を膨らませた。
「あ、山科さんってばひどーい! 私にピアノが弾けるはずないって思ってるでしょ!」
「そんなことないわよ」
きっと仲が良いのだろう、詩音は山科と呼んだ看護師と顔を見合わせてくすくすと笑う。
「まぁ、確かに私は弾けないんだけど。あのね、友達が弾いてくれるんだ」
「え、詩音ちゃんの……お友達?」
詩音のうしろにいる蓮の存在に気づいたのか、山科が驚いたように目を見開く。先程出会ったばかりなので、友達と言えるのだろうかと微妙な表情を浮かべる蓮をよそに、詩音は大きくうなずいた。
「そうなの! 今からピアノ弾いてもらうんだ」
「そう、いいわねぇ。なんだかデートみたい」
嬉しそうな詩音を見て、山科は揶揄うような笑みを浮かべた。
「うん、デートなんだ。だから邪魔しないでねぇ」
同じように肩を震わせて笑いながら詩音がそんなことを言うから、蓮はどんな顔をすればいいのか分からない。
「邪魔はしないけど、午後の検査までにはお部屋に戻っててね」
「はぁい、了解〜」
ひらひらと手を振って、少女――詩音はうなずき、山科と呼ばれた看護師から鍵を受け取った。
ごゆっくり、なんて言葉と共に見送られ、二人は部屋の中へと入る。
鍵を開けた中は、診察室よりも少し広い部屋。窓際にアップライトピアノが置いてあって、詩音はまっすぐにそこへと向かった。
「ね、ピアノあったでしょ? 何か聴かせて」
蓋を開けてキーカバーを除け、椅子まで引いて詩音は蓮を手招きする。
「……入院、してるんだ」
ぽつりとつぶやいた蓮の声に、詩音は唇に人差し指を当ててみせた。
「ふふ、今はまだ秘密。ピアノ弾いてくれたら、教えてあげる」
悪戯っぽい笑顔を見せる詩音は細く華奢ではあるものの、不健康そうには見えない。だけど、先程の看護師は『午後の検査には部屋に戻っていて』と言っていた。
何か事情はあるにせよ、先程の看護師との会話を考えれば深刻な病状ではないのだろう。重病人を、こんな風に一人で自由にうろつかせるとは思えないから。
「……何がいい?」
蓮の言葉に、詩音は目を輝かせた。
「あれ、あれがいい! リストの『ため息』!」
「いきなりすげぇ難しいのもってきたな」
「……だめ? 弾けない?」
詩音が少し残念そうな表情になったのを見て、蓮の負けん気に火がついた。最近弾いていないけど、指が覚えているはずだ。
「弾ける。――聴いてて」
短くそう言って、蓮は椅子に座る。そして一度深く息を吸うと目を閉じた。
ゆっくりと、低く流れるように響くアルペジオに、すぐそばに立つ詩音が息をのんだのが分かる。
してやったり、という気持ちになって、思わず小さく笑みが浮かんだ。
うねるような伴奏と、甘く切ないメロディ。
時に激しく、時には壊れそうなほどに儚く。
蓮の指は、鍵盤の上を自由に駆け回る。
最後の和音をゆっくりと鳴らして鍵盤から指を離した瞬間、大きな拍手が響いた。
「すごい……! 泣きそう! めちゃくちゃ素敵だった……!」
興奮で頬を赤らめた美少女に全力で絶賛されて、蓮も悪い気はしない。
「前に弾いて、俺も好きな曲だったから」
照れ隠しでそっけなくつぶやくも、詩音はまっすぐに蓮を見つめて微笑む。
「私も大好きな曲なの。手がくるくる動いて、やっぱり魔法みたいだった! 本当にありがとう。えぇと……」
詩音が首をかしげ、名前を聞かれていることに気づいた蓮は、小さく笑って詩音を見上げた。
「佐倉蓮。よろしく」
「さくら、れん……蓮くん。やっぱり! 知ってる! 覚えてる!」
突然目を輝かせて蓮の手を握った詩音に戸惑っていると、照れたように笑った詩音が手を離す。ひんやりとした手の感覚だけが、蓮の指先に微かに残った。
「コンクールで名前、よく見てたんだ。ふふ、覚えてた」
嬉しそうに笑った詩音が、有名なコンクールの名前を出す。
「私もね、習ってたんだけど全然でさ。結局辞めちゃったんだけど、いつもコンクールは聴きに行ってたんだ。蓮くんはすごいよね、いつも入賞してたもんねぇ」
確かに蓮はそのコンクールに毎年出場していて、何度も入賞している。もっと上位にいけないことが密かに悔しかったのだけど、にこにこと笑う詩音を見ていると、そんなことを考えているのが恥ずかしくなってくる。
「あ、そうだ、自己紹介しなきゃ。尾形詩音です」
詩音は蓮の手をとって、手のひらに指で文字を書く。
「詩に音って書くの。だからかな、音楽が好きなんだ。もう全然弾けないけど、ピアノが一番好き。前にも思ったけど、やっぱり蓮くんのピアノは音がきらきらしててすごく素敵だったぁ」
「本当に? きらきらしてた?」
思わず食いつくように身を乗り出した蓮に、詩音は一瞬きょとんとしたあと、弾けるような笑顔を見せた。
「うん。蓮くんの指先から、光の粒がこうやってきらきらって溢れてるみたいだった」
両手をひらひらとさせて、ジェスチャーつきで表現してくれる詩音に、蓮も思わず笑顔になる。
「なぁ、もう一曲弾いてもいい?」
「もちろん!」
大きくうなずいた詩音に笑ってみせて、蓮は再び鍵盤に向かった。