epilogue
季節は巡り、春になって蓮は高校三年生になった。
桜の花もそろそろ散り始め、青葉の季節が近づいてくる。
そして、もうすぐ詩音と出会った季節がまたやってくる。
病院へ向かい、エレベーターで最上階を目指す。
毎日のように訪問しているからスタッフとは顔馴染みだけど、面会者名簿に記入をしてから彼女の部屋へ。
「詩音ちゃん」
ドアを開けて呼びかけると、ベッドの上で詩音がゆっくりと蓮の方を見た。
両耳からイヤホンを外して小さく首をかしげると、以前よりも伸びた髪が、さらりと肩を流れた。
「誰?」
戸惑ったように目を瞬く詩音に、蓮は微笑みかける。
「はじめまして。佐倉 蓮といいます。きみのことが大好きなんだ」
笑顔で花束を差し出せば、きょとんとした様子で目を瞬かせた詩音が、ふわりと笑った。
「ありがとう。出会っていきなり告白なんて、変な人ね」
くすくすと笑いながら、詩音は嬉しそうに花束に顔を埋める。
「素敵なお花。すごくロマンティックだわ」
「気に入ってもらえたなら嬉しい。詩音ちゃんが笑うと、俺も嬉しい」
そう言って、蓮は詩音の顔をのぞき込んだ。
「今日は、きみのためにピアノを弾きにきたんだ。良かったら、聴いてくれる?」
「ピアノ?」
一瞬首をかしげた詩音は、大きくうなずいた。
「うん。私、ピアノ大好きなの」
「一番好きな曲は――『ため息』、だよね」
「わぁ、何で知ってるの? そう、一番好きな曲!」
驚いたように目を見開いたあと、詩音は花開くようなまぶしい笑顔を浮かべた。
「毎日聴いてるの。誰の演奏か分からないんだけどね、私、この人の弾くピアノがすごく好きなんだ」
まるで秘密を共有するかのように、こっそりと声を抑えた詩音が枕元に置いたCDプレーヤーを指指す。
その中に収まっているのは、あの時コンクールで蓮が弾いた演奏。
コンクールはもちろん失格だったけれど、出場者の演奏を録音したものをCDにしてもらえたから、蓮はそれを詩音に渡したのだ。あの演奏は、詩音のためのものだったから。
誰からもらったのか、誰の演奏なのかは覚えていないけれど、詩音は毎日蓮の演奏を聴いてくれている。
それで蓮のことを思い出すなんて奇跡は、起きないけれど。
「療法室のピアノを借りたから、一緒に行こう」
蓮が手を差し出すと、詩音は嬉しそうに笑ってその手を取ってくれた。以前よりも細くなったその指を、蓮はしっかりと握り返した。
車椅子に詩音を乗せて、蓮はゆっくりと療法室を目指す。出会う人全てが初対面という世界で、詩音は今日も生きている。一人きりの世界が詩音の目にどう映っているのかは分からないけれど、彼女はいつも穏やかな笑みを浮かべて日々を過ごしている。
それでも全ての人の記憶を失って以来、詩音はうとうとと眠っている時間が増えた。体調に変わりはないけれど、活動量が減ったからか、もともと華奢な身体は更に細くなったように思う。
いずれは、眠りから目覚めなくなる日が来るかもしれないというのは、主治医の金居の見立て。
このまま詩音が眠り続ける日が来るのが先か、それともこの病の治療法が見つかる日が先か。
どちらにしても、蓮は出来る限り詩音のもとを訪ねると決めている。
「詩音ちゃん、聴いててね。きみのために弾くから」
「うん、ありがとう」
詩音の笑顔にうなずいて、蓮はピアノに向かう。毎日のように繰り返される、このやりとり。
だけど、詩音にとっては初めての経験なのだ。
低く深い音から始まるアルペジオも、儚く消えてしまいそうに美しいメロディも。
蓮は毎回、心を込めて音を紡ぐ。言葉で伝えきれないほどの想いを、音に乗せて。
「すごく……素敵」
ぽろぽろと、こぼれ落ちる涙を拭おうともせずに、詩音がつぶやく。毎回、同じように詩音はこうして泣いてくれる。
「だけど、この曲を聴くとね、胸が苦しくなるの」
うつむきながら、詩音がつぶやいた。頬を流れた涙がまた一雫、膝の上に置いた手の甲に落ちる。
「大好きな曲だけど、すごく苦しい。何かを忘れたくないと強く願ったことがあるような気がして。――暑い、夏の日に」
「詩音ちゃん……?」
いつもと違う彼女の反応に、蓮は戸惑いつつ詩音の顔をのぞき込む。
もしかしてとはやる心を抑えつつじっと見つめていると、詩音は目を閉じて小さく笑った。
「……ごめん、何でもない。蓮くんのピアノ、本当に素敵だった。こんなに素敵な曲を聴いて苦しいだなんて、失礼だよね」
「いや、俺のピアノで何かを感じてくれたのなら、それはすごく嬉しいから」
「また、聴かせてくれる? ……私、きっと忘れちゃうけど」
少し寂しそうな笑みを浮かべる詩音に、蓮は力強くうなずく。
「もちろん。俺のピアノは、詩音ちゃんのために弾くって決めてるから」
「ありがとう。……私、何も覚えてないんだけどね、いつか誰かにピアノを弾いてもらったような気がするの。その人も、私のために弾くって言ってくれたような気がするな。――それって、蓮くんのことなのかな」
遠くを見つめるような表情でつぶやく詩音の言葉に、蓮の目頭が熱くなった。
忘れてしまったかもしれないけれど、蓮の弾いた音の欠片が彼女の心のどこかに残っているなら、蓮はこれから先も何度だって詩音のためにピアノを弾く。
いつか奇跡が起きることを願うくらい、してもいいだろうか。
「……蓮くん? 泣いてるの?」
戸惑ったような詩音の声に、蓮は慌てて笑みを浮かべた。
「また明日もその先も、詩音ちゃんのためにピアノを弾くって約束する」
笑って小指を差し出すと、詩音は驚いたような表情で蓮を見上げた。今、約束を交わしたとしても、明日になれば蓮のことをまた忘れてしまうのにと言いたいのだろう。
だけど、笑顔で手を差し出したままの蓮を見て、詩音はおずおずと手を上げ、ゆっくりと蓮の指に小指を絡めた。
「うん、約束」
小さな声で囁いて、詩音は絡めた手を上下に振る。
「蓮くんのピアノをひとりじめって、すごく贅沢な気分」
いつかと同じことをつぶやいて、詩音は微笑んだ。
詩音の世界に響く蓮の音が、彼女の記憶を取り戻せる日は来るだろうか。
そんな日が来ることを願って、蓮はこれからも詩音のために音を奏でる。




