25 眠り姫
「まったく、何をしでかすかと思ったら。……こっちの寿命が縮んでしまうわ」
舞台袖に戻った蓮を、苦笑混じりの本間が出迎えてくれた。
蓮と入れ替わりに舞台に出て行った少女も、そして出番を待つ出場者たちも、ちらちらと蓮を気にするように見ている。
「すみません。どうしても、あの曲じゃないとだめだったんです」
頭を下げた蓮に、本間のため息混じりの笑い声が降ってくる。
「誰かのために……って言ったのは、こういう意味じゃなかったんだけど」
「すみません」
もう一度頭を下げて、蓮は客席に戻るべく歩き出す。
動揺させてしまった他の出場者に申し訳ない気持ちは少しあるけれど、これくらいで動じてミスをするような人はここにはいない。むしろ、ライバルが一人減ったと思ってくれればいい。
ロビーに出る頃には、次の演奏が始まっていた。不安定さなど感じさせない軽やかな演奏が、微かに聴こえてくる。
そして、そこで待っていたのは蓮の母親だった。呆れたようなその顔は、怒っているわけではなさそうだが、何か言いたげだ。
蓮は母親の前まで歩いていくと、深く頭を下げた。
「ごめん、母さん。結果を出すどころか失格になると思うけど……今日は、どうしてもあの曲じゃないといけなくて」
下を向いたまま一気にそう言った蓮に、母親が大きなく息を吐くのが聞こえた。
「あの演奏を聴かせたい相手が、今日ここにいたのね」
ぽつりとつぶやく声に、蓮は無言でうなずく。母親は顔を上げるようにと蓮を促しながら、小さく笑みを浮かべた。
「壮大なラブレターみたいな演奏だったわ。正直、ちょっと泣けたわよ。蓮があんな情熱を秘めていたなんて、知らなかったわ」
まぁ、失格は間違いなしだけどと言いながらも、母親は笑顔だ。
「ごめん」
何度目かも分からない謝罪の言葉を口にしながら頭を下げた蓮の肩を、うしろから本間が笑いながら叩く。
「案外話題になるかもよ。すごくいい演奏だったから」
「このわたしの息子だもの、話題にならないわけがないわね」
ふふんと得意げな顔を見せる母親と、それに笑ってうなずく本間を見て、蓮も思わず小さく笑った。
「まぁ、それはともかく。来週もレッスンはあるんだから、しっかりと練習しておいてね」
「そうね、コンクールはこれだけじゃないんだから。次に向けて練習しなさいよ」
教本の譜読みをしておいてと命じられ、蓮は苦笑いしつつうなずいた。
久しぶりに会った本間とお茶をして帰るという母親と別れ、演奏が途切れたタイミングでホールへ入ろうと蓮がドアを開けたところで、中から雛子が飛び出してきた。その表情は、泣く寸前のように歪んでいる。
「蓮……っ、詩音が……」
「え?」
「来て」
雛子に腕を引かれ、蓮は詩音の座る座席へと向かう。
振り返った相馬が、唇を噛んで視線で詩音を見ろと促した。
ゆっくりと詩音の方に視線を向けた蓮は、思わず息をのむ。
座席にもたれかかるようにして、穏やかな表情で眠る詩音。その頬には、幾筋もの涙の跡が残っている。
「蓮くんの演奏が終わってすぐ、眠ってしまった」
相馬の言葉を聞きながら、蓮は詩音の隣に座ってその手を握った。あたたかいけれど、握り返してくれることのない手に、胸が詰まる。
昨晩は一睡もしていないのだから、きっと限界だったのだろう。蓮の演奏が終わるまではと、必死に起きていてくれたのかもしれない。
だけどきっと、目覚めた詩音は、蓮のことを覚えていないだろう。
最後に向けられた、泣き笑いのような表情を思い出して、蓮はこみ上げた涙を堪えてうつむいた。
◇
休憩時間を利用して、蓮たちは会場を出た。
穏やかな表情で目を閉じる詩音は、相馬に抱き上げられても、車に乗せられても、一向に目を覚さない。
蓮は、ただそばにいて手を握ることしかできない。
病院に戻り、ベッドに横たえられても詩音が目覚めることはなく、診察にやってきた金居も、ただ深い眠りにあるとしか言えないとため息をついた。
昨晩の徹夜のせいで、ただ眠っているだけだと思いたい。
だけど、全ての人物の記憶を失ったあとは眠り続ける症例もあると聞かされているから、詩音が目覚めないことが恐ろしくてたまらない。
「詩音ちゃん、起きて。俺のことを覚えていなくても構わないから、起きて」
動かない手を握って、蓮は囁く。
目覚めて欲しいと願いながらも、もしかしたらこのまま眠り続けていた方が、詩音は幸せなのかもしれないと、蓮はぼんやりと考えていた。
誰も知っている人のいない孤独な世界で生きるよりも、優しい夢の中にいた方が、詩音のためかもしれない。
目を覚まして欲しいなんて、蓮の勝手な我儘なのかもしれない。
相反する感情を抱えながら詩音の手を握っていると、不意にその指先が微かに震えた。
「……っ、詩音ちゃん?」
思わず立ち上がった蓮の目の前で、詩音の目蓋がゆっくりと開いていく。
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返したあと、黒い瞳がぼんやりと蓮を見つめる。
「詩音、ちゃん」
掠れた声で名前を呼ぶと、詩音がふわりと笑みを浮かべた。
もしかして、と目の前が明るくなったように感じた次の瞬間、詩音の唇は残酷な真実を紡ぐ。




