22 最後の記憶
翌日、蓮は病院の正面玄関で雛子と待ち合わせをした。
先に着いた蓮のもとに、酷く緊張した表情を浮かべた雛子がゆっくりと近づいてくる。
「おはよ、蓮」
「ん、おはよ」
短く挨拶を交わして、二人は詩音の病室へと向かう。
コンクールの時でもこんなに緊張しないのに、心臓が今にも口から飛び出してきそうだ。
詩音は、二人どちらかの記憶を失っているだろう。そしてそれはきっと、蓮だ。詩音と雛子の間には深い絆があることはよく分かっているし、共に過ごした時間の長さが圧倒的に違う。
だけど、詩音が蓮のことを忘れていても、また初対面から始めればいい。そして彼女の笑顔のために、何度だってピアノを聴いてもらおう。
昨夜、相馬に話を聞いてから、蓮はそう覚悟を決めていた。
「多分ね、詩音はヒナのこと忘れてると思う」
エレベーターの中で、お互い前を向きながら雛子がぽつりとつぶやいた。
思わず雛子の方を見ると、彼女は淡々とした表情のまま階数表示を見つめている。
「蓮は、詩音にとって特別だから。あたしにとっての悠太くんと同じ。意味、分かるでしょ」
「それは……」
言葉に詰まった蓮が口を開く前に、エレベーターは最上階へと到着する。
蓮と同じように覚悟を決めた表情の雛子は、先に歩き出した。
それでも、扉の前でノックのために握りしめた手は、微かに震えている。
いつも通り三回ノックしたあと、雛子はゆっくりと扉を開けた。
「……誰?」
ベッドの上で身体を起こして座った詩音が、ぼんやりとした表情でこちらを見る。焦点の合わないような黒い瞳が蓮と雛子を見つめるから、二人は息を詰めて黙りこくる。
ふわふわと視線をさまよわせていた詩音が、蓮を見てふわりと笑った。いつものような笑顔ではなく、どこか儚い笑みに胸が苦しくなる。
「蓮くん、おはよう。来てくれてありがとう」
詩音の言葉に、雛子がびくりと身体を震わせた。
「……蓮くんの、お友達?」
雛子を見て首をかしげる詩音に、蓮は必死に笑顔を浮かべてうなずいた。
「うん、俺の友達。詩音ちゃんともお友達になってほしくて」
「そうなんだ。はじめまして、尾形詩音といいます。お名前を聞いてもいい?」
微笑みを浮かべた詩音が、軽く首をかしげて雛子を見る。雛子は、まっすぐに詩音に手を差し出した。
「高瀬雛子。ヒナって呼んで」
「ひなちゃん、よろしくね」
雛子の手を握って、詩音が笑う。その笑顔も、呼び方も、昨日まで雛子に向けられていたものとは全く違うことが悲しい。
「蓮くんはね、ピアノがすごく上手なの。ひなちゃんも、一緒に聴こう?」
「うん、楽しみ」
明るくうなずく雛子を見て、詩音も嬉しそうに笑う。
「あのね、明日は蓮くんピアノのコンクールなんだって。私も応援に行くの。えぇと、何時からだったかな……」
弾んだ声で予定を確認しようと手帳を開いた詩音は、指先でカレンダーの日付をなぞる。だけどその手は、ぴたりと止まって動かなくなった。
「……ヒナって書いてあるのは……、ひなちゃんのことかな。悠太って、誰だろ」
虚ろな口調でつぶやいた詩音は、ゆっくりと顔を上げると蓮と雛子を見つめた。その瞳に、みるみるうちに涙の粒が浮かび上がる。
「……ごめんね、ひなちゃん。もう私、ひなちゃんとどうやって過ごしてきたのか覚えてないんだ。きっとたくさん会いにきてくれてたんだよね。仲良しだったんだよね。私ね、もう蓮くんのことしか分からない。蓮くん以外、誰のことも思い出せない」
何度もごめんと言いながら、詩音は布団に顔を埋める。
泣きじゃくる詩音に近づいた雛子が、そっと腕を伸ばして抱きしめた。
「あたしが覚えてる。詩音とは、幼稚園で同じクラスになった時からずっと一緒。小学校も、中学も、高校だって詩音はあたしのレベルに合わせて……っ」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、雛子は詩音の耳元で囁く。
「ずっと一緒だったの。詩音は、あたしの一番の親友。今でもそれは、変わらないから」
「私、ひなちゃんのこと覚えてないのに……?」
涙に濡れた瞳で見上げる詩音に、雛子は笑みを浮かべてみせる。
「当たり前でしょ。これから毎日、何度だってあたしたちの過ごした日々を教えてあげるから」
悪戯っぽい笑みを浮かべた雛子は、詩音の耳元に唇を寄せた。
「ちなみに、悠太って書いてあるのは詩音の従兄のこと。ここで働いてる内科のお医者さんで、あたしの彼氏」
「え、え、どういうこと? ひなちゃんの彼氏が、私の従兄なの? お医者さん?」
驚きに目を見開く詩音を見て、雛子は涙を拭って楽しそうに笑う。
「ふふ、詩音のおかげで付き合うことができたから、感謝してるんだよ」
馴れ初め聞きたい? と笑う雛子に、詩音の表情も明るくなる。
さすがだなと、蓮は楽しそうに笑い合う二人を見て、小さく息を吐いた。雛子の強さも、二人の絆も、蓮にはまぶしくてたまらない。