21 カウントダウン
詩音が相馬を見つめる視線は、どう見ても見知らぬ相手に向けるもの。言葉を失う蓮たちの中で、いち早く反応したのは相馬本人だった。
「こんばんは、はじめまして。雛子ちゃんとお付き合いしてる、相馬といいます。ちょうど今、雛子ちゃんを迎えに来たところだったんだ」
「え、嘘! ヒナの彼氏!? いつから? 私、全然知らなかった!」
驚いたように目を見開いた詩音は、きゃあっと小さく叫んで雛子の手を握った。
「彼氏連れてきてくれるなんて、嬉しい! 優しそうで素敵な人だね、ヒナ」
「あ、うん……」
必死にぎこちない笑顔を浮かべる雛子を見て、詩音はそれを照れだと判断したらしい。くすくすと笑いながら相馬を見上げた。
「ヒナの親友の、尾形詩音といいます。ヒナ、本当にいい子なの。どうぞよろしくお願いします」
笑顔で差し出された手を、相馬は微かに苦い笑みを浮かべながら握り返す。
ついさっきまで、詩音は相馬のことを覚えていたはずなのに。病院に戻ってきた時には、彼の名前を口にしていたはずなのに。
従兄である相馬に、全くの初対面といった様子で接する詩音を見て、蓮は鼓動が嫌な速さで打ち始めるのを感じていた。
誰もが言葉を失う中、詩音だけが楽しそうに笑っている。
「ヒナと彼氏さん、どこで出会ったの? 色々聞きたいなぁ」
明るい声で馴れ初めを聞きたがる詩音に、雛子は戸惑って相馬を見上げた。相馬は穏やかな笑みを浮かべながら雛子の前に出た。
「僕はここの内科で働いていてね。何度か売店とかで会って、それで」
「え、そうなんだ。じゃあ、お医者さん?」
詩音が華やいだ声をあげるたびに、蓮は胸が苦しくなる。だけど、必死に表情を崩さないように拳を握りしめた。
彼氏が迎えに来たのに邪魔するのは悪いからと、詩音は雛子と相馬を送り出した。雛子も表情を保つのが限界だったみたいだから、それがいいだろうと蓮も見送る。蓮は、詩音が遅めの夕食をとるのを見守って、それから帰ることにした。
詩音は、やはり一人きりになることに不安そうな表情を浮かべていたけれど、看護師に頻繁に様子を見に来るからと言われて小さくうなずいた。今日の行方不明事件もあるし、病院側も詩音の動向に目を配ってくれるだろう。
「また明日も、来てくれる?」
寂しそうな表情でそう言われて、蓮はうなずく。
「朝一番に来るよ」
「うん、待ってる」
詩音に小指を差し出されて、蓮は安心させるように笑顔で指を絡めた。
◇
駅に向かって歩き出しながら、蓮はなんとなく病院を振り返った。最上階のあの部屋の中で、詩音は今も記憶を失う恐怖に怯えているのだろうか。
近道をしようと病院の隣にある公園を突っ切ろうとしたところで、ベンチに座る見覚えのある姿を見つけて、蓮は思わず足を止めた。
「あぁ、蓮くん」
「相馬先生……」
咥えていた煙草を持ち、相馬はふうっと煙を吐く。独特の匂いが生温かい風に乗って蓮のそばまで流れてきた。
「煙草、吸われるんですね」
何を言えばいいか分からなくて、蓮はぽつりとつぶやく。相馬は小さく笑うとポケットから携帯灰皿を取り出して火を消した。
「仕事のストレスが溜まった時なんかに、時々ね。もう随分と長いこと吸ってなかったんだけど、今日はさすがに堪えたから」
立ち上がった相馬は、そばの自販機に向かうとコーヒーを買って蓮に差し出した。指先が痛くなるほどに冷えた缶を握りしめながら、蓮は相馬の隣に座る。
「雛子ちゃんにも話したんだけどね」
コーヒーを一口飲んで、相馬は前を見つめたままつぶやいた。
「きっと詩音の記憶に残っているのはもう、きみと雛子ちゃんだけだ」
薄々予想はしていたけれど、その言葉は蓮の心に重くのしかかる。
「金居先生とも話していたんだけど、恐らく睡眠が記憶を失う引き金なんだろう。今夜眠った詩音が明日の朝に目覚めた時、きみか雛子ちゃん、どちからの記憶を失っていると思う」
「……ということは、明後日には詩音ちゃんは全ての人の記憶を失う、と?」
震える声でつぶやいた蓮に、相馬は小さくうなずいた。
「恐らくはね。彼女の記憶の中に誰もいなくなったあと、どういう経過を辿るのかはよく分からないらしいんだ。人によるというか……」
重苦しい口調で相馬が話したのは、詩音より先にこの病気にかかった人の症状について。
そのまま眠り続けて目覚めなくなった人、孤独に耐えられなくなったのか精神を病んだ人、変わらず一人きりの世界を生きている人――。
「金居先生も、そうたくさんの症例を知っているわけじゃないからね。詩音がこの先どうなるのか、全く分からない。……彼女の心だけは守ってやりたいと思うけど」
蓮よりもずっと長い時間を一緒に過ごしてきた相馬の言葉に、何を返せばいいのか分からなくて、蓮は黙って苦いコーヒーを飲んだ。
「このまま、もう詩音と会わないのもいいと思うよ」
うつむいた相馬がぽつりとこぼした言葉に、蓮は顔を上げる。
「詩音に自分の存在を忘れられることは、覚悟していても辛いものだから」
経験して初めて分かったと、相馬は苦い笑みを浮かべた。
「このまま詩音に会わず、楽しかった思い出だけ残しておいても誰も責めない。詩音自身も、もうすぐ全てを忘れてしまうだろうからね」
以前にも、同じようなことを相馬に言われたけれど、今の彼は心から蓮のことを思って言ってくれていることが分かる。
だけど、蓮はゆっくりと首を振った。
「ありがとうございます。だけど、明日も約束したから」
別れ際に指切りを交わした、細く冷たい指の感触を思い出しながら、蓮は相馬をまっすぐに見つめた。それを受け止めて、相馬の表情がふっと緩む。
「本当に、詩音は友達に恵まれたね。雛子ちゃんも、同じことを言っていたよ」
缶コーヒーを飲み干して、相馬は立ち上がった。
「雛子ちゃんも明日の朝、詩音を訪ねると言っていた。僕は仕事でどうしても外せないから、そばにいてやれないのが辛いけど」
雛子を想うように一瞬目を閉じたあと、相馬は蓮を見つめた。それを受け止めて、蓮もうなずく。
「分かりました。俺も朝一番で会いに行く予定でしたから」
「うん。二人を……よろしく」
差し出された手を、蓮は黙って握り返した。




